@particle30

惑星イオはどこにある

「流星ワゴン」


 

人を救う手立てはたくさんある。

 

金を渡したり、やさしい言葉をかけたり、愛してみたり、境遇の変化をもたらしたり。現実を変えることは、多くの場合たやすい。ちょっとした気遣いや思いつきで、意外と世界は変わってくれる。

 

しかし、あまりに深く沈みこんだ絶望のなかには、とうてい変質が許されていないものもある。

 

泥のなか、地層のおく深く、とにかく触れない遠くに現実の原石があり、だれにも変えることはできない。どうしようもないものの前でたちすくみ、医術も科学もなにもかもが彼のまえから去ったとき、最後にひとつ残されている救いの手段があるとするならば、それは”文章”しかない。

 

(というテーマの短編小説を書きかけのまま放置してあります)

  

 

「流星ワゴン」は、そういう物語で、ひとが死のうとするとき、つまり客観的な見方はどうあれ本人が「終わった」と判断したとき、そして現実をなにひとつ変えられないとして、のこり一つ出来ることってなんなんでしょう。という話なのだ。

 

あらすじはこちら。

 

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■あらすじ(wikipediaより

 

永田一雄は死んじゃってもいいかな、と思っていた。

 

仕事はリストラ・妻からは離婚・子供は受験失敗で引きこもり。地元で入院している父親を見舞に行った時に貰える交通費の余りで何とか暮らしている有様。その父親も癌でいつ死ぬかも分からない。父親の見舞帰りに駅で酒を飲んで酔っ払っていると、ロータリーに1台の車が停まっている事に気が付く。その車には5年前、偶然見た新聞の交通事故の記事で死亡が報じられた橋本親子が乗っていた。言われるがままにその車に乗り込む一雄。そしてその車は一雄を、人生の分岐点へと連れ戻す。

 

降り立ったのは、仕事の途中で妻を見かけた日。他人の空似だろうと仕事に戻ろうとした所に、一人の男が目の前に現れた。一雄はその男の事を、よく知っていた。

 

その男は今の自分と同い年、38歳の時の父親だったのだ。

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久しぶりに小説を読んだ。ような気がする。

 

というのも最近キルケゴールの「死へと至る病」にかかりきりだった。もっとも愛すべきブックカバーはこの子どもにかけられていて、ほかの本は家でさっと読めるぶんだけ。まったく持ち出ししなかった。

 

とはいえあまりに読んでいなさすぎてこれはどうだろうということで、積読のなかから選んだのがこの一冊。自分で買ったのか、人に貸してもらったのか、実家にあったのか、同居人の本なのか、なにも出自はさだかではないが、ともかくもわりと以前からよい評判の聞く本で、何かの賞もとっているらしい。

 

重松清は「きみの友だち」がとても良かったので期待しながら読んだ。

 

■感想

 

・文章はたいへん読みやすい。

 

ラノベみたいな文章でもある。「きみの友だち」のときにもだいぶライトな文章だな~と思ったけれど、「流星ワゴン」はいっそう軽い。主人公が38歳で、テーマも人生の疲れやくたびれや家族愛について(男女愛を扱ったものではぜんぜんない)、というところが、ライトノベルとはとうてい呼べないものの、文章の軽さや設定のファンタジックさなどはかなりライトノベルのノリに近いのではないか、という気がした。(所謂なろう小説的な文章ではなくライトノベル的な、というぐらいのライトさです)

 

・人間の、ふとしたときの気まずさや気恥ずかしさ、気後れやあきらめなど、そういった一種なさけなくもある感情を、ちょっとした行動の描写で表現する、というのがほんとうに上手かった。

 

・大泣きした。

 

------------------------------------------------------------以下、ネタばれ含む。

 







・子どもが山から帰ってきてしまったのがなんとなく解せない。「まだあのワゴンはこの世界のどこかを走っているのです、あなたもぜひ」と読者に語り掛けたいがためだけに残したようにすら思う。帰ってきてくれてよかったなあ、という感じがあまりしなかった。

 

・映像化するとたしかによさそうだな、という感じがあった(ドラマ化しているようです)。最後にみんな幸せになるハッピーエンドも、映像ならより深く感動して見れそう。

 

・しかし、子どもが自分の死んだ場所へ向かっていくあのシーン、あそこだけは文章のほうがよさそうだなー……文章のいいところは、あくまでもペースを自分で決められるところですよね。一行一行泣きながらゆっくり進めることができる。より深く感情を楽しめる。

・子どもを持つと人生二週目に入れる、という論、いままでも何度か聞いたことがあった。とすると人生というのはそもそも30年程度しか必要ではないのかもしれない。2回か3回か、何回か同じことを大切に繰り返して、そして死ぬということ。

・「2週目」を強調するための要素として、「同年齢の父親の登場」があった。どこまでも「くりかえし」と「ねがい」に着目した作品だった。同じことが、何度も繰り返され、現実はひとつも変えられないのに、気持ちだけが変わって、最後には救われるかもしれない、という話。

 

・いくつか「これ誰が言ってるの?」みたいな台詞があって、多少戻ってシーン確認をしたりしてもやっぱりどっちがしゃべっているのか分からず、なんだかモヤっとしたところがあった。

 

・「きみの友だち」のとき、多少ラストが強引にまとめられすぎているというか、とつぜん知らない男が出てきて答え合わせされているような、不思議な抵抗感があったのだが、「流星ワゴン」においては山から子どもが帰ってくるシーンがそれにあたるような気がしていて、「ううん……そうなっちゃうのか……」と、筋書きに妙な強引さを感じてしまったり。

 

・とはいえ。読みやすく手触りがあり大号泣できる、よい本でした。

0310-0311 休日メモ

美術館や博物館に行ったら、行ったぶんだけなにか残しておきたい、と思ったので書いてみました。

※いつもと違って本気でただの日記になります。しかも長い。すみません。

 

■至上の印象派

www.buehrle2018.jp 

この展示にわたしが行かないわけがないのだが、というぐらいツボ。

 

ほのかな恋心を由来として、ゴッホの絵がありそうな展示には片っ端から行くことにしているのですが、本展示は一室分がまるまるゴッホにあてられていてたいへんすばらしかった。浮き上がる絵の具のうごめきとおぞましさ、彫刻作品みたいでとっても素敵ですよね。先日もゴッホの映画を見たばかりだったので、「種を撒く人」が見れたのはとてもよかった。(仕事帰りに行ったら、ねむくて大事なところ5分ぐらい寝ちゃったけど)

 

あと、以前ブログにも書いたとおり、最近はモネにもはまっていました。

夏にフランスに行くときにモネの庭にも行こうかな、どうしようかな、と悩んでいたり。

(※でも、わざわざ初フランスで行くほどのところでもないような……)

 

音声ガイドは、井上芳雄さんだったので躊躇わず借りることに。先日ダディ・ロング・レッグスの素敵なジャーヴィス役を拝見してからというもの、ひそかにファンなのです。


混雑してはいるものの、思っていたほどではなく、多少待てば絵の前に立てる程度。まだ会期前半だからこの程度で済んだのでしょうか、ご興味のあるかたは早めに行った方がいいかもしれません。最近視力があまりに悪くて、なかなかパネルの小さな文字をちゃんと見られないのですが、この日の混み具合は「きちんとルートに沿っていけばパネルや絵の前を通れる」ぐらいだったので、ゆったり歩きつつガッツリしっかり見れました。

 

最初のほうで目に留まったのはドミニクの肖像画。とても美しいなめらかな絵のとなりに、すこし下書きらしい絵が飾られていて、何の対比なんだろう? と不思議に思いましたが、パネルや音声ガイドによると「普段は精密に丁寧な仕上げをする画家だが、これは奥さんのためにささっと描いた絵」なんだとか。

画家本人にとってもさまざまな絵があるのだよなあ、と。丁寧に書かれた絵のほうが、やはり凄い感じはするのですが、奥さんを描いた絵だと知ると、なんだか愛情がこもっているような気がしてより長く見てしまいました。(このようにわたしは簡単な精神をしている……。)

 
その後もマネ、モネ、ルノワールドガピサロなど、さまざまな画家たちの絵が並んでいき、これだけのコレクションを精力込めて収集した人がいるということがなんだか信じられませんでした。ルノワールの描くふんわりとした世界観はやはりいつも可愛らしく、むかしはあまり好きではなかったのですが、数年前のルノワール展で「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」を見てからというもの、そしてかれの「絵画はつねに愛らしくかわいらしいものでなくては」という言葉を読んでからというもの、なんだかいつも気になる画家のひとりです。ちなみにわたしは喫茶店のルノワールが好きです。(ほんとうに関係ない)

そしてなぜか一番気に入ったのはドラクロワの「アポロンの凱旋」でした。皆さんあまり関心がないようでささっと通り過ぎれていかれていたし、ポストカードもなかったのでひょっとするとこんなに好きなのはわたしだけなのかもしれませんが、ものすごくよかったです……近くで見ても離れて見ても素晴らしかった!いつかもう一度会いたい。

シニャックのうるわしい点描画も堪能できました。シニャックと、あと名前を失念してしまったのですがもう一人の画家とが、時代は違えど同じ聖堂院を描きました、という見せ方で2枚の絵が並べられていたのですが、もう一人の画家の方が描いた絵があまりにうますぎて綺麗に撮った写真のようにしか見えず、なんだか「絵を見比べている」というよりも「この絵のモデルはこれです」と元写真を見せられているような気分に。あとで売店でポストカードを見てみましたが、小さいところがつぶれてしまうともう本当に写真にしか見えない……しかし、写真がない時代には相当重宝されたでしょうね。(いや、別に時代がいつであれ写真のような絵を描ける人はすごいのですが、風景を写し取る代替手段が絵画のほかにないという独占技術の問題で。)

そしてメインのルノワールのイレーヌ嬢。可愛らしい。可愛らしい! が、割とそれだけでした。あまりに可愛らしいが……。となりにあった、ルノワールが晩年に描いたという裸婦の絵は、音声ガイドによるとかなり手もおぼつかない中で描いたとのことで、生への執着のようなものをかんじてしまいそちらのほうが印象に残っています。しかしイレーヌ嬢のような絵を見ると、肖像画の文化って素敵だなあと思いますね。現代日本でも小金持ちはどんどん肖像画を描いてSNSのアイコンにしたりしてほしい。かわいい。

そして後半はセザンヌへ。昔は良さが分かりませんでしたが、さいきんほんのり少しずつ好きです。「赤いチョッキの少年」がたいへんよかったです。構図が美しすぎる。ずっと見ていられる。。そういう力がある。この少年の付箋もポストカードも買ってしまいました。(アートパネル購入まであと一息だったぞ。)

その後ぐらいにゴッホの部屋があったような気がします。(ゴッホ、あまりに好きすぎて最初にほとんど書いてしまったような気がするな! あまりに好きです)
肖像画も素晴らしかったですし、「花咲くマロニエの枝」もかなりサイコーでした。何年でも見ていられる。。。うん十万円のコピー絵(絵具の立体感も、3Dプリンタで再現されている)があって、こういうことにお金を使うべきなのではないか……? と一瞬血迷いましたが、10秒ほど瞑想して気持ちを落ち着けました。

終盤はゴーギャンやブラックも。ゴーギャンのひまわりは感情をつよくゆさぶりますね。なんだかもう絵を見て感動しているのか背後のストーリーに感動しているのか分からないレベルになっている。ブラックはいつもとても好きなんですが、ピカソは「色のバランスうまいなあ」ぐらいしか分からないので、いつも通り「うまいなあ」と思っただけで通り過ぎてしまいました。ぐーんとゆさぶられたことがないが、とつぜんモネが好きになったみたいに、いつかピコーンと分かる日がくるのだろうか。そんな日がいつかでいいので来ますように。

そしてモネ。最後の睡蓮の絵! ものすごかった。たしかにものすごかった……けれど、大きい分なんとなくざっと描かれたような印象をうけて、いや、もちろんものすごい(※3回目)のですが、先日見た「睡蓮の池」のほうがつよく訴えかけてくる感じがありました。どうしてかしら。ここは撮影可能ルームだったので、なんだか落ち着かなくてあまり長く見れずサクッと退散しました。最近は撮影可能展示多いですよね! やはり口コミ効果で集客への好影響があるのだろうか。経済がまわっている感じがしていいですね。

話がお金の方向にそれてしまいましたが、モネ、やっぱりこの人は盲目的に自分の身の回りの風景と幸福を愛していたのだなあ、という感じ。ルノワールもそうなのですが、愛らしいもの、美しいものに対する執念や愛情の盲目さがみてとれるのがとっても好きです。


総じて、たいへんよい展示でした!
この二日間で4つ見ましたが、やはり一番気に入った展示でした。さすが新国立美術館。すばらしかった。

■全日本水墨画秀作展

実はこの日、友人に30分ぐらい遅刻されたので、印象派展の直前に空いた時間で3階の無料展示も見てました。

 

「書」はぜんぜん興味がないのですが、水墨画ならわたしでも楽しめるかも! と信じ入ってみることに。とはいえあまり時間はなかったのでするりと通りぬけつつ、気になるものがあれば立ち止まりつつ、という感じで鑑賞しましたが、なかなか面白かったです。白黒だけでこんなにいろいろ描けるんだ、とびっくり。

 

油絵とかだと、道具を触ったこともないので、どんなふうに混色するのか、どんなふうに描いていくのか、間違えたときにどう修正するのか(えぐったりできるの?)とか、分からないことばかりですが、さすがに墨絵となると、筆と墨で描いたんだよなあこれを……と想像がたやすいので、これだけの大作を仕上げる力のすごさが分かります。何度か間違えたりしたのかしら。墨こぼしちゃった子いないのかな、とか。

 

展示を終えて出たところで、「19歳の少年が書いた”恐竜の”絵があります」というポスターに気づいたのですが、「恐竜の」のところ、明らかに上から紙を貼って訂正された跡があったのが面白かったです。あんまり熱心には詮索しなかったけど、たぶん元々は「犬の」なんたら~と書いてあったような気がする。

■カフェ・ド・ラペ

とつぜんカフェの話が始まる。休憩のため、Twitterで「印象派展」の検索したときに、どなたかが呟いていたカフェ・ド・ラペへ。

 

なんとなくですけれど、同じ展示を見に行くような人とは、同じカフェを愛せるような気がしています。

(って、「印象派展」ぐらいになると範囲が広すぎるかもしれませんが)

 

味がレトロでたいへん美味しかったです。(カフェインがちょっと強く、のちのち水で薄めないと辛かったですが、これは自分の体質のせい)

 

庭にあこがれますよね。とても可愛らしいカフェで、庭園調のインテリアが素敵でした。

 

■ルドルフ2世の脅威の世界展

www.bunkamura.co.jp

印象派展後、友人がまだまだ見足りないというので、はしご2軒目。

 

Bunkamuraは初めてだったのですが、壁紙の色や模様がかわいかったり、ミュージアムショップが充実していたりでとても好きになれました。美術館の出口すぐに本屋さんやおいしそうなレストランがあるのもいいですね。渋谷ってなんだかあまり行きませんが、わりと近いし、もう少し頻繁に足を運んでみてもいいのかも、と思いました。

 

音声ガイド付きで鑑賞。ガリレオ・ガリレイの弟が作曲したという曲を聞きながら赤い壁で囲まれたなかを進んでいくと、なんだか名のある貴族の家の廊下で楽しませてもらっているみたいな気持ちになれました。(まさに「驚異の部屋」!)施設全体が大きすぎないので、個人の邸宅のような印象を受けるのでしょうね。

 

先日、大英博物館展がありましたが、あのときにも「驚異の部屋」には憧れを抱いたものです。作中でだれかに個人博物館を持たせようかしら。リュエルは魔術士専門の史学家という設定なので、ひょっとすると不思議な品を私邸に収集していたりするかもしれませんね。

 

そして、「曲だけ」聴ける音声ガイドっていいですよね!(願わくばリピート再生機能もつけておいてほしい。もはやウォークマン

 
ちょっと奇天烈な雰囲気だったのもあり、なにかしらの着想を得たのか、メモには謎のみみず文字が躍っておりますが何を書いたのかさっぱり思い出せません。いつもこうなんですよね。メモる必要あるのかしらもはや。

そうだ! ドードーがいました。作品数は少ないながら、音声ガイドでもしっかり取り上げられていて、グッズもあって。ドードー、キャラクターとして大人気ですよね。わたしも好きです。なにをあんなにかわいらしく思うのか分かりませんが、初めて剥製を見たときには、この生き物がもうこの世界のどこにもいないということをものすごく残念に思いました。

 
あとはガリレオ・ガリレイケプラーの作品も多く、博物館のような気持ちでも楽しめました。昔は天文学者と物理学者と魔術師と錬金術師の境がうすかった、という話、ロマンでしかない。

そしてサーフェリーの絵が図鑑のようでうるわしく。ルドルフ2世がお気に入りなのもうなずける。皇帝自身はほとんど外には出ず、ただ作品や標本を集め続けた、とのことですが、こんなに面白いものに囲まれて生きていたら、たしかに外になんて出なくていいという気持ちになったかも。

そしてほぼラストに、目玉のアルチンボルドアルチンボルドは花の絵と海洋物の絵がいっとう凄いと思っているので、野菜しかないのは少し切なく……野菜もじゅうぶん見ごたえのある絵なのですが、できればまた花も見たかったなあ……と残念に思いました。(ルーブル展でまた来るそうですね!)
しかしこの展示の流れだと、野菜の絵がルドルフ2世にとってどれほどの価値、そして重きを置くべき絵だったのか、という部分が理解しやすく、普通にアルチンボルドの他作とドンと並べ置かれるよりも野菜だけに集中できたので、これはこれでよかったのかもしれません。

アルチンボルドの絵を模した立体物の作品などもあって、しっかりガッツリ楽しめるよい展示でした。なにより撮影ポイントが最後のショップ領域にあるのがいい。どうしても撮影ポイント付近はカジュアルな雰囲気になってしまいますからね……いっそショップ側にあるほうが嬉しい……。

若干目玉が少ないように感じましたが、雰囲気や音声ガイド含めてたいへん楽しめました。また、ボードに書いてある文言や、中途にある映像展示もなかなか面白く、見ごたえがあってよかったです。

  

欠点を挙げるとするなら、照明のあたりでしょうか。あの違いってなんなんでしょうね。どの施設も同じように光が当てられている感じがするのに、なんだか見やすい美術館とてらつく美術館があるのだよな。。。

 

全体的に、博物館らしいような、陳列室らしいような、小ぶりでも面白い展示でした。

 

結論としては「やはりローマ皇帝の収集物はすごいな」「財力がすべてだな」という感じ。

 

仁和寺と御室派のみほとけ-天平真言密教の名宝-

ninnaji2018.com


行こうかどうかギリギリまで迷っていた展示。


最終日だったので、混んでいることは分かっていましたが、思い切って出かけてみました。
二時すぎまでぐだぐだ悩んでいた。こういうとき朝からスパッと行くことができないのが自分の嫌いなところです。

 

大体三時ぐらいに到着。時間がないので貸し出し列に並ぶのも惜しく、音声ガイドはなしで進みましたが、借りたほうがよかったかもしれません。

(知らなかったのですがいま空海の映画やってるんですね。そのキャストの方たちが音声ガイドやってました)

 

最初のほうはさまざまな書や歌の展示が中心。「書」におそろしく興味がないもので、見てもなんだかよく分からず、とりあえず漢字(のようなもの)を心のなかで黙読してみたり……。

 

パネルを読んでも、正直よく分からないものばかり。
うーん、と思いながらも、さいきん友人に「今まで興味が持てなかったものに触れてみよ」と箴言をいただいたばかりだったので、とにかくなにか感じられるものがないかと見つめてみましたが、結局なんとなくも分からないままでした。後醍醐天皇の書とか出てきたときはさすがに「おっ!」と思いましたが、しかしそれも「わたしは後醍醐天皇の書を一度見たことがあります」という経験作りぐらいにしか、ならなかったような気がする……。

 

昔の書って結構残ってるのね、とか、虫食いってこんな感じなんだ、とか思いながら進んでいきました。あと、梵字はいつ見てもカッコイイですね!

 

1展示会場は書や道具、第2展示会場は仏像メイン。書は分からないけど、仏像なら楽しく見られるのでは、と第2展示場に思いをはせ、時間がないことを理由に第1展示場の最後のほうは結構スルー気味で通りました。(といっても人が多くて、どの展示も立って静かに眺めるなんてことは出来ない状態でしたが)

 

Twitterで事前に行った方の感想を見てはいたのですが、やはり聞いていたとおりただただ人が多い。まあ最終日に行った人間が言えることではないけれど!w 第1展示会場のほうが、人が詰まってる感じがありました。

「普段美術館・博物館に行かなさそうな人が多かった」という感想を見かけて、どういう意味だろうな、と思っていたんですが、行ってみてなんとなく納得。年齢層が極端でした。年齢層高めの方もいれば、普段は見かけないようなお子さんもいれば。結構みんなベラベラしゃべるし、列は急かされるし、博物館、というよりは見世物小屋のような雰囲気でした。まあ混んでたしね。

 

2会場ではSNSで大人気の、仏像写真を撮れるコーナーもあったのですが、みんなパシャパシャ撮るのでメイン展示なのにゆっくり見れず。実際のお堂を再現されたとのことで、圧巻な感じもありつつも、でもなんとなく物足りないような気も。混んでたからですかね。でも、会期後半はわりとずっと混んでたみたいなので仕方がないのかも。ここもうるさかったです。たぶん仏像にとってもこれほどうるさい場所に長く留め置かれたことはないのではないかと!w

 

パシャパシャゾーンが終了したら、最後に仏像展示が数部屋続いて終了。この仏像ゾーンが、個人的には一番面白かったです。木造でこんなにきれいに作れるんだな~と。仏具ってやはり目の前に立ってみると、なかなかぐっとくるものがありますね。ちょっとでも横に角度がついちゃうとだめで、まっすぐ目の前に立つ。するとなんだか、像のまぶたはもちろん閉じられているのですが、しっかり見つめられているように感じて、すこしの恐ろしさとありがたみを感じました。実際にいくつかの像の前では手を合わせている人も多く、たしかにそういう力のある像だよなあ、と。

 

こんなに仏像に近づけることってなかなかないでしょうし、後ろ側が見れるようにぐるっと周りこめるように展示されていたのもよかったです。後ろ側になにかいい装飾がある、というわけでもないのですが、仏像の背後ってなかなか見れるものでもないので。

 

話はそれますが、ちなみにいままでで一番「すごい!」と思ったのは、三十三間堂です。とつぜん仏教に正式改宗しそうでした。本当にすばらしかった。あの像も後ろから見てみたいものです。。。

 

最後の目玉展示は千手観音。ほんとうに千手持っている観音はこれだけ! というお触れのやつです。これもぐるっと回れるようになっていました。どこから見ても手が伸びていて、細かい造作が本当に素敵でした。こう書くのも大変アレだが神がかっている。

 

展示の周囲で叫んでいる方がいて、こわかったのではやめに退散しましたができることなら数十分遠目でも眺めていたかった。こういうときに自分のむやみな繊細さがいやになりますね。(人が大声出してて怖かったから出るって。。。)まあでも、展示はすばらしかったです。

 

一緒に「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」という展示もやっていたみたいで、そっちのほうにもちょっと興味があったんですが、出た頃にはもう閉館してました。常設展示や併設展示があるところは早めに行かなきゃ損だな~と分かりながらも、なかなかいつも腰が重たい。

 

たぶん、「いつでも行ける」と思うからこうなんでしょうね。田舎にいたときとは比べ物にならないぐらい展示も多いし、選べるし。あんなに行きたかったジブリ美術館藤子不二雄館もまだ行っていない。いい加減にしたい。



ほんとうにただの自分メモになってしまった。
今月は色絵展に行ったり、映画をいくつか見たりもしているので、そのあたりも記事にしたいところですね。なにかしらこのインプットが創作にむすびつきますように。

睡蓮の池

初めてクロード・モネの「睡蓮の池」を見たとき、わたしのむねは締め付けられ、ぎゅっと水をふくんだスポンジが絞られるみたいにして、なにかが垂れ落ちるような、不思議な感覚を味わった。心臓からあふれだしたなにかはわたしの胃や腸のあたりを濡らしているようだった。ともかくも不思議な、内臓がどろどろに溶けそうなほど、と書くとあたかもグロテスクだけれど、とかくもわたしはその絵に懐かしさを感じて、見たことのないこの庭にどうしてか帰りたいと願い、どうしようもなくさみしくなった。

 

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名画を見たときの感情体験はいくつかに区分わけができると思っている。

 

ああ、これがかの、と教科書のなかの記憶を引っ張り出して、自分のなかのひとつの「良質な」経験としてしまわれるもの。あるいは、ふと足を止め、とうていそこから離れられず、まるで恋人を残してこの地を去らなくてはならないような、不思議な感傷をおさえきれないもの。もうひとつは、一見すると目はひくもののたいしたことはないのだが、その絵の前に立っているうちに、絵が襲ってくるような感じを受けて、強い衝撃を脳髄に残すもの。いつかもう一度会えますようにと、願いをこめずにはいられないようなもの。

 

睡蓮はそのすべてを横断した体験をよこしてくるものだった。

 

まず遠くからでも、ああ、あれがかの、と分かる。画面いっぱいに描かれた美しい庭。遠目でもその美しさが見落されることはない。楽しみに思いながら、ほかの絵をたどって、次々とバトンがわたされ、ついに「睡蓮の池」の順番がくる。わたしはとつぜん、ここ数枚の絵にかんする記憶を失う。どうしてもそこから離れられず、そなえつけの椅子に座り、しばらく連綿とつづく睡蓮の葉たちと見つめあっている。絵のなかの風景はどこか動き出すような気配があって、わたしが瞬きする一瞬だけをねらって風を吹かせているのではないかと、そんな気持ちにさせられる。これ以上ないほど自由が過ぎて、かえってどこか窮屈な感じさえある。この庭園のなかに一度入ったら、もう二度と出ることはできないのではないか。どこかの隔離された、静謐なサナトリウムのなか。あるいは夢のなか。二度と戻ることはできない世界の果ての風景。

 

この庭はきっと、春は当然、夏もうるわしく、秋は静かにきれいで、冬はいっそう美しいのだろう。

 

モネについてわたしは詳しくなかった。睡蓮をやけに多く描いた画家であり、生前に名声を得た印象派の巨匠で、顔のない女性の絵をやわらかく描いたひと。その程度の認識しかなかった。今までもいくつか作品を見たことはあったはずだが、これほどさびしくはさせられなかった。

 

この絵を描いた人のことを、ほとんど知らないのにもかかわらず、わたしはかれを哀れに思った。かれはたぶん、この庭の外には興味がなかったんじゃないか、と思った。執念とも呼ぶべき集中力がかれを絵のなかだけに引き込み、つつむ緑の香り、やさしい水音と立ち上る特徴的な草いきれ、そのすべてが彼を呼び続け、ついに帰ってくることはできなかった。彼が描いているのはその諦念にも似た、このやわらかい庭以外の世界をすべて切り捨ててしまいたいという決別のこころ、盲目的な庭への愛情、ただそれだけで、睡蓮や草たちは、彼の人生そのものであり、だからわたしはたぶんこんなにも寂しくなる。

 

やがて緑はわたしを襲いだして、わたしはどうしてもこの絵の前から離れられなくなる。撮影可能の美術館だった。ほかの絵の前ではカメラを出そうという気持ちになれなかったが、この絵だけはわたしも撮った。もちろん、当然、この池の魅力を少しも持ち帰ることなんてできないと理解していた。

 

コンサートに行く理由、美術館に行ってわざわざ本物をこの目で見たいと思う理由、このふたつは重なっていて、つまりわたしは、「ほんもの」を記憶に宿しておきたいのだと思う。一度「生」で聞いた歌声は、自室でCDをかけているときにも被って聞こえてきて、いままでは多少いいじゃないかと思う程度だった楽曲が、生で聞いてしまったら最後、大好きで一秒だって気も抜けない楽曲へ転変してしまった経験をわたしは持っている。絵はもっと分かりやすくて、教科書のなか、インターネットの画像検索、そんなもので見た絵たちは、どこかよそよそしく、魅力はそぎおとされて、ただ「かたち」だけがなんとなく分かるだけのものになってしまっている。しかしほんものを前にすると、絵というのは生きているみたいに動くのだ。そしていちど瞳のなかに「生」を宿せば、家に帰って、とんでもなくひどい出来のポストカードを眺めているときも、それなりに絵は鼓動を打つ。

 

なにかに意味を与えてしまうのが芸術の条件なのかもしれないと思うことがあって、事実わたしはあの美しい睡蓮の庭に似た風景を見るたびに、うつくしいものへの憧れのこころ、どうしようにも手に入らない平穏への憧憬、のびのびと小麦の焼きたてのパンだけをたべて川辺にしろのワンピースで寝転がりたい気持ち、そんな、とっくに捨てたはずの、どこか懐かしいその気持ちが、わたしを襲ってきて、しばらく帰ってこられなくなる。定時の鐘が鳴るすこし前に、目の前いっぱいのガラスの向こうのビル郡が、とおく夕暮れのなかに落ちて行って、青や紫や、時には緑がかった空が、薄くのびた雲だけをお供に色を変えていくのがすきだ。やがてすべての色が去って、黒塗りのやけに反射するガラスだけがのこり、外にはビルのうえについている赤い点滅灯しか見えなくなったころ、ようやくわたしは現実に帰ってこれる。すとんと、とつぜん目が覚めて指定の椅子の上に戻されるみたいに。

 

小説もそういうものでありたいと思っていて、絵や音楽が、なんとなく一瞬の情景やふわりとした感情をとらえることに向いているなら、小説は経験を消化することに向いていると感じる。わたしがあの睡蓮を見てから、どこかにあるかもしれないモネの庭のうつくしい情景を信じ、世界の美しさを信じることの盲目の美しさを愛していられるように、小説は、人々のうしろ暗い経験や口にするとつまらなくなるこじれた気持ちやそれでもこびりつく愛情やとれないひずみのようなもの、そんなものに意味を与えてしまうことが、たぶん出来ると、これだけはずっと信じている。

 

毎日夜がくるたびに、わたしは美しい絵画に幕の下りたのをさびしくかんじ、ふたたび日が上がるのを待っている。夜の暗さが一番好きだった子どもが。夜が現実で、朝は絶望だけれど、昼はすこしやさしくて、夕暮れがいちばんうつくしい。睡蓮が好きです。

魔性の子

 

帰りたいと思うことがある。帰り道の途中でも。ベッドのなかにくるまっているときでも。実家に戻って出された梨をのんびりむさぼる昼下がりにも。

 

どこかに帰るべき場所があるのではないか。わたしを待っている世界があるのではないか。玉座が用意され、赤いカーペットの敷かれる、ただわたしだけが足りない王宮が、とにかくどこかに。

 

……なんて、もうそんなことを思うことはほとんどないけれど、「帰りたい」郷愁の思いは、思春期のわたしをしばらく縛り付けていた。それゆえにわたしは「魔性の子」という作品が印象深い。帰りたい。どこかに、自分のいるべき世界がある。それはどこか――どうしても、帰らなくてはならないのに。

 

 

 

 

魔性の子―十二国記 (新潮文庫 お 37-51 十二国記)

魔性の子―十二国記 (新潮文庫 お 37-51 十二国記)

 

 

この小説を読むとき、わたしはいつもかつての夢を思い出す。その気恥ずかしさゆえに一度もちゃんと口には出したことがないけれど、でも、誰もがきっと思ったことがある、あるいはわたしがそう信じている、女神になりたかったという夢。

 

友人と話し合ったことがある。われわれははやめに死にたい。


大切なものをたくさん持たず、ただ若さだけを抱えているとき、その天賦のギフトが少しずつ失われていくのを感じ、そして大人たちがその欠損を悲しみ、わたしたちをどこか哀れみの目で見つめるのを知って、わたしははやく死にたいと願いはじめる。いま持っているうちに。美しいうちに。なにも欠損しない、完全なままの姿で。

 

しかしその希死観念は、つまりは永遠に子供のままでいたいというピーターパン症候群の裏返しに他ならないので、結局のところわたしたちの体は死になじまず、喪失を経て大人になる。なにか決定的なものを無くすことを、わたしたちは通過儀礼と呼ぶ。

 

ただ年を経ていくだけでも、単純にたくさんのものが失われていく。柔らかい絹のような髪質、すべてが輝く世界の光、夜通し話をする仲間、どこかにいたはずの友人、周囲からの寛容のまなざし。しかしそんなものはたいしたことじゃない。わたしたちが真に失うのは、自分を自分たらしめる何か、つまり柱のように通っていたもの。それを脱皮のように脱ぎ捨てなければ、わたしたちは大人になることができなかった――そんなふうに思うことが、わたしにはある。

 

わたしが失ったのは友人だった。その友人は絶望という名前でよくわたしの前に現れた。死にたくもない今ならわかる、あのころは本当に、いつ死んだってかまわなかった。けっして投げやりな気持ちでも、いじけた思いでもなかった。ほんとうにどうなったって、いっこうにかまわなかったのだ。すべてが。

 

死ぬならどう死にたい。誰もが一度は話し合う、結論もなければ面白みもないその話題。わたしたちはこう答えた。ただ死ぬのはつまらないから、世界を救って死んでみたいよな。英雄になりたいのかって? そうじゃない。誰にも知られなくていいから、ただ、わたしは何かをなしえて死にたい。そのまま誰の記憶にも残らなくても、ほんとうにいっこうにかまわないから。


記憶には残らない。
誰にも感謝されなくていい。
世界をほんとうに救いたいわけじゃない。

ただ、なにか意義のある死を顕現したい。


つまり、女神になりたいということ。

 

 


女神は目に見えない。あるいは現れることを知らない。それは超常的な存在で、現世とは結びつかず、住まいはいっそ常世に近しい。存在するだけで価値を持ち、その犠牲は尊く、ただわたしたちを救う。気まぐれで、いつも存在を感じられるわけでもないけれど、でもたしかにいると、信仰によって存在を立脚する。

 

そういった存在に、わたしは憧れていた。結局は、「死んでもいい」というのは覚悟ではなく、放棄だ。なにか対価を差し出すから、とにかく特別な存在になりたいという身勝手な契約。異世界転生したり、勇者の星に愛されて旅をするのと、本質的には変わらない。つまり、努力なしで生きていってみたいということ。何か特別な存在に、格別の努力なしでたどり着きたいということ。

 

その甘い甘いひどい夢を、臆面もなく口に出せるようにするためのスパイスが、つまりは死だった。「死んだっていい」というのは、何も持たないからこそできる魔法の取引だ。自分が価値を感じていないものを放り出すのは簡単だし、ある種当然のこと。わたしたちは言う。死んだっていいから奇跡をください。このまま奇跡がないのなら、どのみち死んでしまうからです。

 

 

 


魔性の子」において、一人は帰り、一人は留まる。

 

自分の座るべき椅子を取り戻した者と、
不浄のために選ばれることが出来なかった者。

抱きとめてくれるやさしい異形の両腕を持つ者と、
どうしようもなく人間でしかありえない者。

そのままで完全であり続ける者と、
今まさになにかを失わなくては大人になりえない者。

そして、麒麟と、人。

 


「特別になりたい」と、自分のなかの幼子が言いそうになるたびに、わたしはこの小説を思い出す。

 

わたしたちは女神にはなれない。

 

行って、人間の世界で生きなくてはならない。

 

 

魔性の子―十二国記 (新潮文庫 お 37-51 十二国記)

魔性の子―十二国記 (新潮文庫 お 37-51 十二国記)

 

 

コミティア121参加について

 

膨大な時間を置かなくてはブログ記事が書けない呪いにでも侵されているのか?

 

 

 

というぐらい前(※一ヶ月前)の話になってしまいましたが、コミティアに参加しておりました。

 

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以前の文フリとはうってかわって、フォロー関係にある皆様との交流がメインだったように思います。

とはいえあたらしく一期一会に本を手に取ってくださるかたもいらっしゃって、とてもたのしい参加になりました。

が、明らかに一般参加のほうが楽しそうでしたのでたぶんもう出ることはないと思います…………(ほかのブースに行きたくて行きたくて仕方がなかった……)

 

設営直後は会場の雰囲気を見るために席にいましたが、十五分ほど待ったところで、早めに回ったほうがよさそうだな!! と気づき午前中はずっと離席しておりました。

 

会場直後、どどどーーーっと走っていく人がいて、Ohこれはさすがに文学フリマでは見なかった光景だな……と思ったり……よくもわるくも文学フリマはゆったりしたイベントだったように思います。規模の問題もあるかと思いますが。

 

また、前回はわりと飛ぶように売れていった(ありがたいことです……)ので結構あわただしく、何時にいくら売れた~とかもあまり記録できなかったのですが、今回はゆっくりお知り合いのかたにも手に取っていただきながら……という感じでしたので、周りを見る余裕やブースに来ていただいた方と楽しくお話する時間もたっぷりあり、これぞイベント参加という感じがいたしました。

 

お菓子や本をお持ちくださったかたも多く、イベント時間中ずっと楽しく過ごせました。ほんとうにありがとうございました!

 


今回は、5月の文学フリマにも持っていった「標本」を再度刷り、あとコピー本を2冊持っていきました。

 

■「標本」

いままで書いた小話を寄せ集めた短編集になります。
自分が好きな作品を詰め込んだので私としては結構好きなのですがちょっと濃い感じもありつつ。

 

送料が高いのですが、いちおう通販しております。

particle30.booth.pm

ためし読みはこちら。

estar.jp


あと、ありがたくもTwitterでいただいたご感想をこちらのモーメントにまとめてあります。

COMITIA121「標本」

 

こちら「標本」は、かなりの数刷ったのでたぶん生涯在庫はなくならないと思います。
11月の文フリにも持っていきますので、よろしければぜひ!

 

■コピ本「三点コーナーと赤い糸」

こちらは「夜明けのコーヒー企画2」に参加させていただいた作品の分量を増やしたものとなります。

 

夜明けのコーヒー企画様はこちら。力作ぞろいですのでよろしければ。

夜明けのコーヒー企画2|TOP

 

加筆した、というよりは、続きを書いた、という感じで、企画に出させていただいた作品は、「夜明けにカップル二人で飲むコーヒー」がテーマだったためそこに重点を置いて、最後にちょっとだけ自分らしさを出して終わらせたのですが、その甘め展開を『上』と位置づけ、その後のふたりの軋轢を書いた『下』を付けて、コピー本として出しました。

 

なので、『上』『下』でかなりテイストの違うものになっています。『上』だけでも『上』『下』合わせてでも、どちらでもそれなりに楽しめるものが書けたように思います。

 

■コピ本「ALPELF」

こちらは現在書いている「アルプエルフ」の第一幕のものになります。

「アルプエルフ」は全三幕の物語として書いておりまして、最終的に完成版として出すときにはもう少し全体との味付け調整をするため加筆を加える予定ですが、現時点でもいちおうの作品としての体裁はできていたので本にしました。

ネット上で公開していたとき反応がよくなかったので、印刷するにあたり、冒頭部分にちょっと目をひきそうなプロローグを追加しました……が、もう少し惹きのあるものが書けたら差し替えたいところ。

 

プロローグなどなど加筆前の作品ですが、WEBではこちらに載せております。(リプライツリーで。)

https://twitter.com/particle30/status/863479238338396160

 

https://twitter.com/particle30/status/863479238338396160

全体的にもう少しうまく書きたいのですが、現状だとこんなところでした。なんというか「物語」を書く手腕のようなものが圧倒的に不足しているのを最近感じていて、ただしいやりかたなのか分かりませんが、短編をいくつも書いていこうと思っています。いつかしっかり製本して世に出せますように。

 

 


また、二つのコピー本は、せっかく手刷りするのならなにか特別なことをしたい……! と思い、表紙や印刷紙、タイトルの書き方などをどれも少しずつ変えてあります。世界で一冊の本、というやつ……まあ、表紙が違うだけですが!

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なかなか楽しかったです。

 

 

最後に部数について、イベントに参加される方の参考に多少なると思うので、書き記しておきます。(あまりそういうことを書くのはなあと思っていたのですが、自分に置き換えてみると、わたしは参加前、そういったブログをいろいろと探しかなり勉強させていただいたので……。)
今回は20部を越えるぐらいでした。やはり漫画のイベントなのかなあ、という感じがあります。

 

11月の文フリでは、アルプエルフ、あるいはキス・ディオールの物語を製本してきっちり持っていきたいのですが、なかなか難航しておりまして、また短編集になってしまうかもしれません。


ただ、基本的にはなにか新作をもって行きたいという想いではおりますので、どうぞ次回も宜しくお願いいたします。

月と六ペンス

 

偉大なる小説は、冒頭三文に必ず神が宿る。*1

 

その教理に基づくならば、「月と六ペンス」はページをめくったその瞬間に「偉大」であることが判明する稀有なる小説だった。*2

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

 

序文はこうだ。

「初めて会ったときには、ストリックランドが特別な人間だとは思いもしなかった」

 

この本は、たった一人の天才画家「チャールズ・ストリックランド」をひたすら追う主人公「わたし」の物語である。その狂気と執着のすべてを追う旅。

ストリックランドのモデルはゴーギャンであることが知られているが、あくまでも「モデル」であり、ゴーギャンそのものの話ではない。*3

 

 

さて、これほどに面白い小説があるとは知らなかった!

 


こういう作品が書きたい。
最初から、最後まで、何かが発展したわけでもなく、主人公の何かが変わったわけでもないのに、でもどうしてか読み手の私が根本から組み換えられている。文字が私の精神を変質させる。それはちょっとした勢いづけや、気分の上下といったものではなくて、もっと化学的な変化で、不可逆だ。タンパク質が溶けるようなことだ。

 

ストリックランドは安定した暮らしと妻子を捨て、異国へ向かう。そこでひとつの平凡だが幸せに暮らしていた夫婦を破滅させて、さらに遠く、最後はタヒチへ向かう。タヒチで彼は生涯をかけた絵を描く。概要にしてしまえばたったそれだけの話だ。ゴールもなく、教訓もなく、ただ美しい文章だけがそこにある。ただただストリックランドが台風の目になって、周囲を荒らしに荒らすだけのものがたり。この小説においては、三人の女がストリックランドの人生を取り巻いている。最初の妻、破滅した夫婦のかたわれ、タヒチでの現地妻。

この小説において、「愛」はひとつのテーマだと思う。
けれど彼がほんとうに恋をしたのは、愛したのは、おそらく女ではなかった。人間ですらない。彼が愛したのは、主人公の「わたし」が呪文のように唱えた「説明してもらえませんか?」に終わる長台詞だったように思う。この台詞は小説の中盤で出てくるが、この場面を読み終えたとき、わたしはこの小説はかならず傑作であると確信した。引用しよう。

 

「そして、奇妙なことが起こる。終わったとき、あなたは信じがたいほど清らかな気分になっている。肉体から遊離した霊のような気分で、まるで物質に触れるように、美に触れることができると感じる。そよ風や、芽吹きはじめた木々や、虹色にきらめく小川と交感できるような気がしてくる。まるで、神にでもなったかのように。そういう気分を説明してもらえませんか?」

 

本作においてはこの場面だけが、他とは違う異彩を放っている。

他の場面では、「わたし」によって、様々な事象は解説されつくしている。分かりづらいストリックランドの言葉も、「わたし」の手によって全て綺麗に漂白のうえ整頓され、ならんでいる。「わたし」のやることの動機もすべて説明されつくしている。しかし、ここで「わたし」はどうしてか、突然ストリックランドに上述の台詞を述べるのだ。ろうろうと、歌うようなリズムに思える。どうして「わたし」がこんなことを言ったのか、それは明かされない。ただただ無法者のストリックランドを追いかけているだけだったのに、ここで唐突に、「わたし」はストリックランドに謎かけをする。このシーンだけが、恐ろしく理解不能だ。


しかし、ストリックランドはおそらく、この言葉にずっと支配されていたのではないかという気がしている。そして天啓というのはこういった類のものだ。与えるほうにも、与えられるほうにも、衝撃を下しながら、その実それがどこからきたのか、本質的には誰もわからない。

 

そしてストリックランドはラストシーン、その願いに答えた。
呪いといってもいい。彼を追いかける、ひたすらに取り付いて離さない恐ろしいこの台詞から、ついに開放されることができたのだ。彼は「説明」した。壁一面の絵を描くことによって。

 

たとえば、「夢」は呪いだという人がいる。ストリックランドにかけられた魔法があるとしたら、呪文は上記の台詞だ。彼はこの言葉を聞いて「拷問にかけられて死んだ人はこんな顔をしているのだろうという表情」になった。つまり、呪われたのだ。

 

 

自分の話になるが、わたしは、かつて「たすけてくれ」と縋りつく子どもを宥めるために小説を書いていた。今は、「うるさい」となにかを撥ね退けようとする声のもとへ向かっている。
そして、ストリックランドにとってのこういった呼び声は、主人公の発した上述の長たらしい台詞だったのだ。いわく、「説明してもらえませんか?」

 

 

きっと彼の頭のなかにその言葉が何度も渦巻き、離れず、ふとしたときに聞こえ、どうしようもなく彼を狂気へ、つまりは月へと誘ったに違いない。月は狂気で、六ペンスは生活だ。月は夢の彼方のことで、六ペンスは身近な今日の飯の種だ。

 

わたしの持っている本ではないが、他の文庫本の解説には、「ストリックランドのことを追い求める主人公、という筋書きは、同性愛的な側面もある」と書かれているそうだ。しかし、わたしはこの物語を恋の話だとは思わない。たしかにエッセンスとして「男」と「女」が描かれており、また時代性もあって「女」がきわめて特殊な生きものに描かれているようには思うが、しかし、この本の本質は恋ではないと思う。*4

 

この物語は、どうあっても芸術、美に心惹かれ、そのままに生きた男を書いた物語だ。厳密には、芸術家は三人でてくる。タヒチで果てた狂気のストリックランド、才能がなくても金を稼ぎ芸術に魅入られ続けたストルーヴェ、そして、そんな彼らを「観察」して書き残した書き手の「わたし」。

 

前述のとおり女も三人出てくる。最初の妻、ブランチ、そしてタヒチの妻であるアタ。それぞれにストリックランドを愛した。あるいは愛すると信じていた。

 

しかしストリックランドが恋したものがあったとすれば、やはり「わたし」の言葉だけだろう。

 

 

そして最後に書きたいのは、ストルーヴェは果たして凡人なのだろうか、ということだ。これほどに美に焦がれ、全てを投げ捨ててなにかに賭けることが出来る男が、果たして凡人たりえるだろうか。天才というのは大きな欠落のことであると感じる。ストリックランドに良心や共感が欠落しているのだとすれば、ストルーヴェには自尊心と羞恥が欠落している。

 

また、さらに言うならば、ストルーヴェはほんとうに善人なのだろうか。私がもし、ブランチだったとして、彼のかの言葉――どうしようもない時に、助けてもらった経験はないのかというかれの優しくも愚かで残酷な詰問を、許すことが出来るのかどうか、という話だ。そう言われたブランチは、きっとストリックランドに恋をするにあたり、思ったことだろう。「この人はこんなことは言わない」と。ストリックランドは少なくとも、恩に着せることはしない。そもそも女になにかを与えることがないために。

 

 

 

欠落。欠損。狂気へさそう呼び声。その全てが書かれている本だ。

 

私も文章さえ書けるなら、この腕のなにをとられてもかまわないのに、残念ながら今のところ目立った欠落は見つからない。

 

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

*1:わたしはこの信仰に呪われて一文字も書けない苦しみも味わったことがある。

*2:この本は訳者も素晴らしい。金原瑞人さんという方の訳だそうで。他の訳者の本はどうだろう、と少し本屋で覗いてみたが、この本が一番だ。新訳ということもあり読みやすくなっているのでしょう。この青い表紙の本を皆さんどうぞ買ってほしい。ただ英語を日本語に読み替えただけの「訳」ではなくて、リズムや思想がちゃんと考慮されていて、とても読みやすいし、真意が明らかである。訳者の名前で検索したのなんてハリーポッター以来じゃないかな。バーティミアスを訳した人なのですね。

*3:もともとゴッホが好きだった。ゴッホゴーギャン展にもよろこんで足を運んだ。ただ、ゴーギャンの絵にはそんなに好ましいと思えるところがなかったので、基本的には「ゴッホ」を知るためにはゴーギャンも欠かせないよな、というような考え方でかれの絵を眺めた。しかし、「月と六ペンス」を読んで、ゴーギャンの絵をもう一度見てみたい自分がいる。たしかに、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の絵は、なにかで一度巨大なコピーを見たことがあるが、すばらしかった。

*4:「夢にも思わない」でも同じようなことを書きましたね。『この本のテーマは恋ではない』

祖母について

祖母のことを書いておこうと思う。わたしが祖母について知ることのすべてを。

あまりまとまりある記事を書くつもりはない。わたしはとにかく、現時点のわたしの頭のなかにある祖母の情報を、すべてここに書き出してしまいたいのだ。ひょっとすると年を追うごとに少しずつ祖母の情報を忘れているのかもしれない、と思うと、いてもたってもいられなくなった。すべて書き残しておきたい、彼女のすべてを。

わたしの言う「祖母」は父方の祖母のことで、母方の祖父母、そして父方の祖父は、わたしの記憶にはあまり残っていない。みんな、わたしが四歳になる前に亡くなってしまっていて、父方の祖母だけが、わたしが十六歳になる年まで生きていてくれた。

とはいってわたしがもう十代のうら若き乙女でない以上、祖母は随分前に亡くなったことになる。もう何年か生きておいて欲しかった、と思うことがたくさんある。その願いはもちろんかなうことはない。でも、わたしは祖母のことが好きだった。とても好きだった。それは祖母がわたしのことをとても愛してくれたからで、その返報性の原理で、わたしは祖母のことが好きだった。

どっぷりとした愛情、というものを信じることができるのは、祖母と父のおかげだ。

祖母はたいていの「おばあちゃん」と同じく、孫であるわたしにとても甘かった。とくに、わたしが祖母にとって初めての孫で、そして女の子だったから。

祖母はわたしに裁縫を教えてくれた。なにかを作るのがすきな人だった、と思う。いまもし生きてくれていたら、一緒にやりたいことがたくさんある。祖母が作ってくれた雛人形を、三月になったら毎年出している。祖父が作ってくれたお皿を漬物入れにしている。祖母はわたしが大事にしている人形の洋服を作ってくれた。わたしに大きな日本人形を贈ってくれた。わたしはその、結構本格的であるがゆえにちょっと怖い顔の人形が、どうしてかとても好きだった。祖母はわたしに惜しみなくなにかを与えたがっているように見えた。正直なところ、わたしはプレゼントの与えがいのある子供ではなかったように思う。なにかをもらったとき、喜ぶよりも先に申し訳なくて、ごめんなさいと思うような子供だった。小さいころから、自分が恵まれすぎているのではないかという疑念があった、という話は別の記事でまた書きたいけれど、この日本に生まれたたいていの子供はきっと、こう思うときがあると思う。「どうして世界には恵まれない子供がいるのに、わたしたちだけはそれなりに幸せに暮らしているのだろう」という不思議な気持ちのこと。わたしには、欲しくてたまらないのに手に入らないものなんてほとんどなかった。いや、欲しいものがあっても、「大人になったら手に入る」とわかっていた。本はある程度は買ってもらえたし、誕生日に欲しいものを聞かれても、あんまり出てこないような子供だった。あまりに何も欲しいものがなくて、実際、小学5年生の冬はなにもプレゼントをもらわなかった覚えすらある。弟に、なんてもったいないことを、と言われたのを覚えている。弟はそれなりに欲しいものが多い子供だった。

しかし、欲しいものが多い子供のほうが、きっと手なずけやすいし可愛かっただろうな、と今ならわかる。お菓子を見せれば喜ぶ子供のほうが可愛い。欲しいものがわかりやすくて、サプライズで渡したら大きな声で喜ぶ子供のほうが可愛い。まあしかし、わたしはそうではなかった。欲しいものが少なかったために、たまに欲しいものがあってそれを両親に言うと、比較的すぐに買ってもらえたように思う。実際、大人になってから、母親に「あなたは誕生日もクリスマスも子供の日も、なにもいらないっていうから、ちょっと怖くて、たまに何かが欲しいって言われたらすぐ買ってあげたくなったわ」と言われたことがあり、けっこう申し訳なくなった。母親をむやみに心配させることほど悪いことはない。

しかし祖母は、そんなわたしの無関心さとは関係なく、とにかく服や雑貨やアクセサリーなど、無節操にわたしに買い与えた。あまりに物を欲しがらないと気づくと、札束をそのままに与えてきたことすらあった(札束なんて見たのはあれが最初で最後だ)。とりあえずわたしは「ありがとう」と祖母にいつも電話をしたが、個人的にはあまりうれしくはなかった。服に対する意識が低く、何を着たって変わらないと思っていた。可愛い服ね、と母親に言われても、何が可愛くて何が可愛くないのか、まったく判別がつかなかった。わたしが「お洒落」というものを唐突に理解したのは十六か十七歳のときのことだ。その瞬間についてはっきり覚えている。京都旅行で、わたしは初めて「ほんとうに欲しい」と思うバッグに出会い、そしてそのバッグは1万円とちょっとの値段だった。今なら安いなと感じるけれど、そのときのわたしにとって、1万円を超えるバッグなんて手の届かない存在だった。周りを見渡した。なぜか初めて気づいたのだ、この世界にさまざまな可愛いものがあることに。それから、わたしはファッション雑誌を買うようになった。母親と一緒にいろんな店をめぐるようになった。わたしの変化に、父親だけは少し驚いたようだが、母親は「こんなものよ。従姉妹のあの子だって、今は洋服やらバッグやらものすごいでしょ。でも、十五歳ぐらいまではぜんぜん興味なさげで、心配してたぐらいだったんだから」と言った。そのころ、祖母はすでに亡くなっていた。わたしはそのことについて、突然とても申し訳なくなった。わたしが好きな服について話し、その服をねだったりしたら、きっと祖母は嬉しかっただろう。服屋でわたしが好きそうなものを見つけて贈ってくれることもあったかもしれないし、そういった買い物は祖母自身とても楽しかったに違いないのだ。とにかくもらったので「ありがとう」と義理堅く電話してくる孫よりも、これが欲しかった! と満足して弾む声で「ありがとう!」と電話してくる孫のほうが可愛かったに違いない。わたしがもう少し早ければ。あるいは、祖母がもう少し遅ければ。しばらく、祖母が好きだったものを好きになるたびに、取り返しのつかない申し訳なさを感じる日々が続いた。いまもたまに、どうしようもなくすまなく思う日がある。

祖母はわたしの名前について最初に反対した人のひとりだった。わたしの母親が、この子にこの名前をつけると言ったとき、祖母はかたく反対した。あまりかわいらしい名前ではなかったからだ。せっかく女の子なのだから、もっと可愛くて、音がよくて、素敵な名前があるのに、そんな名前にするなんておかしい。ぜったいにわたしはそんな名前では呼びませんからね、と大喧嘩したらしい。父と母は簡単にそれを流し、結局わたしはわたしの名前を授かった(わたしなら親にそんなにも反対された名前をぜったいに子供にはつけない……)。わたしはいま、自分の名前のことをこれ以上ないぐらいに愛しているけれど、たしかに可愛い名前かといわれたらそうでもないなと思う。でも、わたしの名前だ。二十余年付き合ってきた。(ちなみに祖母は、結局ふつうにわたしの名前を呼んでいた)

名づけのエピソードにもあるとおり、祖母はすぐに怒る人だった。しかしその怒りがわたしを不快にすることは殆どなかった。怒りの矛先が自分ではなかったから、という理由もあるのかもしれないが、やっぱり、祖母の怒りの表現が、とても美しかったからというのもある。あの美しさは忘れられない。やわらかな濡れ土のなかから一本の若葉が伸びて、唐突に大輪の花が咲くような立派さで、祖母は怒った。「怒り」についてわたしがそれほどマイナスのものだと振り分けできないのは、祖母の美しい怒りを知っているからだ。彼女は不満に思うこと、おかしいと思うことがあると、その花を咲かせ、立派にただ立ち尽くしてみせた。たいていの人はその前にひれ伏すしかなかった。怒りは表現であり、軟らかだった樹液が硬く琥珀に凝固して輝くようなことで、それは一種非可逆の化学反応ではあっても、運用さえ間違えなければけっして悪いものではない。

両親の結婚の折にも、祖母は怒った。ふたりがまだ若く、特に父は学生だったから。父は卒後の進路も不安定だった。母親は勝気に、わたしが稼ぐので問題ありませんが、とそれを突っぱねたので、祖母と母は最初のうちは仲がそれほどよくなかったらしい。らしい、とわたしが言えるのは、わたしが物心つくころにはその不和はきれいさっぱり解消されていたからだった。祖母と母はそれなりにうまくやっていた。ひどく親しいわけではなかったが、お互いそこそこにおせっかいで、それなりに世話を焼くのがすきな人だった。決断が早く、スピードが速いのを好む人たちだった。

おまけに祖母は美しい人だった。わたしの記憶に残る彼女は、どうしたって老人だったけれど、それでもセンスのよい人で、美しい人なのだろうとは分かった。彼女の洋服の柄がわたしは好きだった。ある日、祖母の家を全面リフォームして二世帯住宅にして祖母が伯父と暮らすことになったので、ものを片付けるためにわたしたちは祖母の家を訪れた。父が二十年をかけてつくりあげた巨大な書斎をわたしは最後に目に焼きつけ、不思議な魔法の城のような二階が取り壊されるのを惜しんだ。いま思うと、祖母の家はすこし不思議な間取りをしていた。急勾配の階段、書物で溢れた二階、三つもある応接間、家の奥に潜むほんとうに小さな寝室。一匹の猫。ふさがれた扉が二つも。

庭に面する大きな窓のある廊下は、ちょっとした部屋ほど広くて、その空間にいくつかの巨大な絵があった。その絵の整理を祖母と一緒にわたしはした。昼の光がよく入ってきていた。南向きの窓だった。絵の裏に、ひとつの巨大な写真が隠れていた。それは写真、と呼ぶにはあまりにも大きくて、少なくともA1よりも数回り大きい、ポスターとも呼ぶべきような写真で、一人の美しい女性が、ウェーブした髪をたなびかせて海辺に座っている写真だった。これはだれ? とわたしが聞くと、お上手なことを言うのね、と祖母は笑った。「昔の彼氏に撮ってもらったんだわ。モデルだったの」。嘘だろう、ともう一度写真を見た。あまりにも大きいその写真を、何十年も前の技術でどう作ったのかわからないが、少なくとも個人が気軽に印刷できるようなものではなさそうだった。わたしはそのとき、若いころの美しい写真を、昔の恋人が撮ってくれた写真を、ずっと持ち続けて、孫に見せるような大人というものにたいする憧れをしかけられたように思う。祖母は美しい人だった。

祖母はわたしが十六のときに亡くなった。

亡くなる前、祖母は父親に「あなたに何もしてあげられなかった」と言っていた。そんなことはない、と父親は返した。祖母は、伯父ばかり構ってしまった、と告白していた。あなたはそれなりにほおっておいても大丈夫だったから、と。わたしの父親は、生活面の話をするならば「手がかからない」なんてことはありえない。靴下は必ず裏返してしまうし、洗濯も料理もできないし、掃除や整理整頓はまったくまったく出来ない。しかしそれほど手をかけても、心配させても、人は死ぬ間際、「何もしてあげられなかった」なんて思うものなのか、と、わたしはその愛情の深さに、ほとんど恐怖した。そんな愛情があるのだ。それが親子の愛というものなのかと、わたしは恐ろしくなった。そんなに誰かを愛したことなんてなかったので。

祖母に何かを贈れば、きっと喜んでくれただろう。わたしは大人になったいま、ひどく旅行好きで、じつは平均すれば月に一度はどこかに出かけている。遠近さまざまな場所だが、そのお土産を毎月贈れば、きっとひどく喜んでくれただろう。事実、父と母は喜んでいる。それを祖母にはできなかった。

最後に会ったとき、祖母はわたしの手を取った。ひどく冷たい手だったけれど、かすかに体温があった。わたしはその手を握り、涙をこらえながら、祖母の言葉を聴いた。勉強をよくするように。恋人と仲良くするように。色んなことがあるだろうけど辛抱強くやるように。元気でいるように。そんな普遍的な教訓をわたしはうなずきながら聞いた。祖母は最後に、「もう来なくていい」と言った。「元気になってから、こちらから連絡するから、あなたは忙しいのだから、もう来なくても大丈夫」と言った。そして手が離れた。もう終わりなのか、と思った。

元気になる、ことなんてないと、わたしは聞いていた。祖母自身も知っていたはずだった。癌だった。よくなる見込みはまったくなかった。

一度病院を出たところで、父は母に電話をした。いま終わったよ。母は、あらかじめ取り寄せておいたお守りをちゃんと渡したかと父に聞いた。渡していなかった。わたしたちはもう一度病室に戻った。
忘れ物をしたことを伝え、お守りを渡した。祖母はありがとうと言った。起き上がったり、テレビを見たりすることはもうなくて、ただベッドのうえにいるだけだった。大事なときに忘れ物をしてどたばたしたりして、心配をかけたのが申し訳なかった。でも、いまでは忘れ物をしてよかったとせつに思う。祖母は最後に、父の手を握って、ごめんなさいと言った。元気でやりなさいと何度も言った。たぶん、祖母にとってはその言葉のほうが忘れ物で、だから、わたしたちはあの日、ヘマをして病室に二度も訪ねるはめになって、きっととても良かったのだ。

最後に話をしたのは、それから二ヶ月後、わたしの誕生日のことだ。その日は朝からどんちゃん騒ぎで、目覚めると机にケーキが置いてあったり(早朝友人の誰かが置いたのだろうが、どう考えても不法侵入だ)、部屋を出ると靴箱の上に馬鹿みたいな巨大なリボンのかかったプレゼントが置いてあった。朝の点呼の途中、監督生がわたしに小さな花束を差し出しながら「おめでとう!」と言った。まばらな拍手が響き、わたしは恥ずかしくなりながら部屋に戻った。誕生日がすきではない子どもだったのだ。扉を閉めた瞬間、待ち構えていたかのように、同室の生徒が「おめでとう」と言った。教室ではクラッカーの雨を受けた。

いつもどおり遠大なる数式をノートに写す授業のあと、PHSに入電があるのに気づいたわたしは、ふるえる手で折り返した。3コールの後、祖母が出た。誕生日おめでとう、と祖母は言った。それからいくつかのことをわたしに伝えた。プレゼントを選ぶ元気はないので、お金を送るということ。元気にやりなさいということ。勉強をがんばりなさいということ。
わたしは、まともにものを言えなかった。もっとわたしは何かを言うべきだったのに、なにも言えなかった。なにを言えばいいのかも分かっていなかった。わたしは努めてやさしく返事をした。祖母との電話はすぐに終わった。わたしはそのあとしばらく、なにも考えられなかった。あんなに弱弱しい声を出すのに、もういつまで命があるかもわからないなか、わたしの誕生日を覚えていたのだ。

わたしは愛を信じている。

それはすべて祖母と、そして父のおかげだ。二人以外の何者のおかげでもない。
もちろん、もう一人の親である母がわたしを愛していないとは思わないし、母からは母からでほかにさまざまな大切なことを教わったけれど、しかし無償の深い愛情の存在をわたしが信じていられるのは、祖母と父がわたしをそういう風に愛してくれたからだ。かれらはとても愛情深い人たちだった。

祖母の葬儀の喪主はとうぜん、父だった。父の挨拶を覚えている。
父はまず、「わたしは死ぬのが怖い」と言った。わたしもそうだった。あのころ、わたしは死ぬのが恐ろしくて、しかしそれでも、三十になるまえに自分は死ぬのだと、なぜだかそういう気がしていた。(誰だってそういうことがあると思う)。父は続けた。「しかし、昔はもっと怖かった。どうやって人は死の恐怖を乗り越えているのだろうと、不思議で仕方なかった。けれど今はそれほど怖くはない。怖いとは思うが、昔ほどではない。それはおそらく家族や仲間がいるからで、そういう関係がひとつ増えるたびに、死の恐怖が少しずつ薄れていくのを感じている。母もきっと、みなさんのおかげで、死はそれほど怖くなかったのではないかと思います。賑やかなのがとにかく好きな人でしたので、どうぞ楽しく団欒のうえ、母を見送ってあげてください」。

わたしはその挨拶でようやく泣いた。もちろん、祖母の訃報を聞いたとき、実際に祖母の遺体の前に立ったとき、どうしようもなく涙がじんわりと瞳の奥から出てきたけれど、でも、それだけだった。思い切り泣くということはなかった。だけど、その弔辞を聞きながら、せきとめていた涙があふれたように、ただただ涙が流れた。わたしは死というものがもつ喪失の力を、さいごに祖母に教えてもらった。そのあとわたしは何度も、長期間にわたり、発作のように泣く日があった。

参列のなかで、祖母の友人たちは「なにも知らなくて、お見舞いにもいけなくてごめんなさい」と言った。祖母は友人たちに自分の病気のことを隠していた。どうしてなのかは分からない。病気の姿を見せたくなかったのか、気を使わせたくなかったのか。

触ってあげてください、と勧められて、わたしは死に化粧の終わった祖母の頬を撫でた。ひどく冷たかった。四ヶ月ぶりに触れた肌は、あのころも冷たかったのに、今はもう、ほんの少しの温かみすらなかった。命とはなんだろうと思った。今目の前にいる祖母は誰なのかとも思った。そんな風に感じたのは、祖母の顔がどうにもわたしの知る祖母の顔と違っていたからだ。どうしてかひどく若々しい顔つきだった。白く、しわが少なく、美しい顔つきをしていた。

こんな詩も書いた。

 

それは穏やかな午後のことだった。
白い鳩は紫色の空を滑空して訃報を私に伝えてきた。
何処かで知らない鳥が鳴くのが聞こえた。
耳をふさぎたくなるような高音の鳴き声は、嬉しいのか哀しいのかどちらとも取れなかった。

次の日に蒸したような暑さの中で葬儀は行われた。
太陽は高くて棺からは遠かった。
葬儀屋は具合を悪くして早退してしまった。
死者は何故か若々しい顔つきをしていた。

大きくベルがかき鳴らされた。
どこか荘厳だという気がしていた。
馬鹿馬鹿しいほどあっけなかった。
手順と仕来りで凝り固められた式を見て気づいた。

弔いは生きている人の為のもの。
鎮魂歌は歌わない、貴方は何よりそれが嫌いだったから。
死者の相手はきっと天使がするだろう。
私達はせめて地上の悪魔にならないように祈るだけ。

――そうして大きな棺は土の中へ消えてしまった。


”貴方の見る夢が幸せでありますように”
”貴方の上の十字架が重くありませんように”

沢山の、貴方の為に祈りを捧げる人達の中で、
ようやく自分を思い出した。

”さようなら”
”ありがとう”


空には鳩がいて、紫色の空を滑空していた。
まだ埋められたばかりの穴から土の香りがしていて、
足元を今バッタが飛んだ。

それは穏やかな午後のことだった。

 

祖母が死んでから、わたしはこう思うようになった。長生きしよう。わたしのためではなく、わたしの子供の子供のために。わたしの遺伝子を受け継ぎ、きっと感情が細やかで、感受性豊かで表現や創作を愛する、いや、そうならないかもしれないけれど、でもわたしと同じような不安定さを持つかもしれないその子が、その生涯のなかで、愛をどっぷりと信じられるようになるために。わたしのように。


以上、わたしが愛を信じている理由について、でした。