@particle30

惑星イオはどこにある

祖母について

祖母のことを書いておこうと思う。わたしが祖母について知ることのすべてを。

あまりまとまりある記事を書くつもりはない。わたしはとにかく、現時点のわたしの頭のなかにある祖母の情報を、すべてここに書き出してしまいたいのだ。ひょっとすると年を追うごとに少しずつ祖母の情報を忘れているのかもしれない、と思うと、いてもたってもいられなくなった。すべて書き残しておきたい、彼女のすべてを。

わたしの言う「祖母」は父方の祖母のことで、母方の祖父母、そして父方の祖父は、わたしの記憶にはあまり残っていない。みんな、わたしが四歳になる前に亡くなってしまっていて、父方の祖母だけが、わたしが十六歳になる年まで生きていてくれた。

とはいってわたしがもう十代のうら若き乙女でない以上、祖母は随分前に亡くなったことになる。もう何年か生きておいて欲しかった、と思うことがたくさんある。その願いはもちろんかなうことはない。でも、わたしは祖母のことが好きだった。とても好きだった。それは祖母がわたしのことをとても愛してくれたからで、その返報性の原理で、わたしは祖母のことが好きだった。

どっぷりとした愛情、というものを信じることができるのは、祖母と父のおかげだ。

祖母はたいていの「おばあちゃん」と同じく、孫であるわたしにとても甘かった。とくに、わたしが祖母にとって初めての孫で、そして女の子だったから。

祖母はわたしに裁縫を教えてくれた。なにかを作るのがすきな人だった、と思う。いまもし生きてくれていたら、一緒にやりたいことがたくさんある。祖母が作ってくれた雛人形を、三月になったら毎年出している。祖父が作ってくれたお皿を漬物入れにしている。祖母はわたしが大事にしている人形の洋服を作ってくれた。わたしに大きな日本人形を贈ってくれた。わたしはその、結構本格的であるがゆえにちょっと怖い顔の人形が、どうしてかとても好きだった。祖母はわたしに惜しみなくなにかを与えたがっているように見えた。正直なところ、わたしはプレゼントの与えがいのある子供ではなかったように思う。なにかをもらったとき、喜ぶよりも先に申し訳なくて、ごめんなさいと思うような子供だった。小さいころから、自分が恵まれすぎているのではないかという疑念があった、という話は別の記事でまた書きたいけれど、この日本に生まれたたいていの子供はきっと、こう思うときがあると思う。「どうして世界には恵まれない子供がいるのに、わたしたちだけはそれなりに幸せに暮らしているのだろう」という不思議な気持ちのこと。わたしには、欲しくてたまらないのに手に入らないものなんてほとんどなかった。いや、欲しいものがあっても、「大人になったら手に入る」とわかっていた。本はある程度は買ってもらえたし、誕生日に欲しいものを聞かれても、あんまり出てこないような子供だった。あまりに何も欲しいものがなくて、実際、小学5年生の冬はなにもプレゼントをもらわなかった覚えすらある。弟に、なんてもったいないことを、と言われたのを覚えている。弟はそれなりに欲しいものが多い子供だった。

しかし、欲しいものが多い子供のほうが、きっと手なずけやすいし可愛かっただろうな、と今ならわかる。お菓子を見せれば喜ぶ子供のほうが可愛い。欲しいものがわかりやすくて、サプライズで渡したら大きな声で喜ぶ子供のほうが可愛い。まあしかし、わたしはそうではなかった。欲しいものが少なかったために、たまに欲しいものがあってそれを両親に言うと、比較的すぐに買ってもらえたように思う。実際、大人になってから、母親に「あなたは誕生日もクリスマスも子供の日も、なにもいらないっていうから、ちょっと怖くて、たまに何かが欲しいって言われたらすぐ買ってあげたくなったわ」と言われたことがあり、けっこう申し訳なくなった。母親をむやみに心配させることほど悪いことはない。

しかし祖母は、そんなわたしの無関心さとは関係なく、とにかく服や雑貨やアクセサリーなど、無節操にわたしに買い与えた。あまりに物を欲しがらないと気づくと、札束をそのままに与えてきたことすらあった(札束なんて見たのはあれが最初で最後だ)。とりあえずわたしは「ありがとう」と祖母にいつも電話をしたが、個人的にはあまりうれしくはなかった。服に対する意識が低く、何を着たって変わらないと思っていた。可愛い服ね、と母親に言われても、何が可愛くて何が可愛くないのか、まったく判別がつかなかった。わたしが「お洒落」というものを唐突に理解したのは十六か十七歳のときのことだ。その瞬間についてはっきり覚えている。京都旅行で、わたしは初めて「ほんとうに欲しい」と思うバッグに出会い、そしてそのバッグは1万円とちょっとの値段だった。今なら安いなと感じるけれど、そのときのわたしにとって、1万円を超えるバッグなんて手の届かない存在だった。周りを見渡した。なぜか初めて気づいたのだ、この世界にさまざまな可愛いものがあることに。それから、わたしはファッション雑誌を買うようになった。母親と一緒にいろんな店をめぐるようになった。わたしの変化に、父親だけは少し驚いたようだが、母親は「こんなものよ。従姉妹のあの子だって、今は洋服やらバッグやらものすごいでしょ。でも、十五歳ぐらいまではぜんぜん興味なさげで、心配してたぐらいだったんだから」と言った。そのころ、祖母はすでに亡くなっていた。わたしはそのことについて、突然とても申し訳なくなった。わたしが好きな服について話し、その服をねだったりしたら、きっと祖母は嬉しかっただろう。服屋でわたしが好きそうなものを見つけて贈ってくれることもあったかもしれないし、そういった買い物は祖母自身とても楽しかったに違いないのだ。とにかくもらったので「ありがとう」と義理堅く電話してくる孫よりも、これが欲しかった! と満足して弾む声で「ありがとう!」と電話してくる孫のほうが可愛かったに違いない。わたしがもう少し早ければ。あるいは、祖母がもう少し遅ければ。しばらく、祖母が好きだったものを好きになるたびに、取り返しのつかない申し訳なさを感じる日々が続いた。いまもたまに、どうしようもなくすまなく思う日がある。

祖母はわたしの名前について最初に反対した人のひとりだった。わたしの母親が、この子にこの名前をつけると言ったとき、祖母はかたく反対した。あまりかわいらしい名前ではなかったからだ。せっかく女の子なのだから、もっと可愛くて、音がよくて、素敵な名前があるのに、そんな名前にするなんておかしい。ぜったいにわたしはそんな名前では呼びませんからね、と大喧嘩したらしい。父と母は簡単にそれを流し、結局わたしはわたしの名前を授かった(わたしなら親にそんなにも反対された名前をぜったいに子供にはつけない……)。わたしはいま、自分の名前のことをこれ以上ないぐらいに愛しているけれど、たしかに可愛い名前かといわれたらそうでもないなと思う。でも、わたしの名前だ。二十余年付き合ってきた。(ちなみに祖母は、結局ふつうにわたしの名前を呼んでいた)

名づけのエピソードにもあるとおり、祖母はすぐに怒る人だった。しかしその怒りがわたしを不快にすることは殆どなかった。怒りの矛先が自分ではなかったから、という理由もあるのかもしれないが、やっぱり、祖母の怒りの表現が、とても美しかったからというのもある。あの美しさは忘れられない。やわらかな濡れ土のなかから一本の若葉が伸びて、唐突に大輪の花が咲くような立派さで、祖母は怒った。「怒り」についてわたしがそれほどマイナスのものだと振り分けできないのは、祖母の美しい怒りを知っているからだ。彼女は不満に思うこと、おかしいと思うことがあると、その花を咲かせ、立派にただ立ち尽くしてみせた。たいていの人はその前にひれ伏すしかなかった。怒りは表現であり、軟らかだった樹液が硬く琥珀に凝固して輝くようなことで、それは一種非可逆の化学反応ではあっても、運用さえ間違えなければけっして悪いものではない。

両親の結婚の折にも、祖母は怒った。ふたりがまだ若く、特に父は学生だったから。父は卒後の進路も不安定だった。母親は勝気に、わたしが稼ぐので問題ありませんが、とそれを突っぱねたので、祖母と母は最初のうちは仲がそれほどよくなかったらしい。らしい、とわたしが言えるのは、わたしが物心つくころにはその不和はきれいさっぱり解消されていたからだった。祖母と母はそれなりにうまくやっていた。ひどく親しいわけではなかったが、お互いそこそこにおせっかいで、それなりに世話を焼くのがすきな人だった。決断が早く、スピードが速いのを好む人たちだった。

おまけに祖母は美しい人だった。わたしの記憶に残る彼女は、どうしたって老人だったけれど、それでもセンスのよい人で、美しい人なのだろうとは分かった。彼女の洋服の柄がわたしは好きだった。ある日、祖母の家を全面リフォームして二世帯住宅にして祖母が伯父と暮らすことになったので、ものを片付けるためにわたしたちは祖母の家を訪れた。父が二十年をかけてつくりあげた巨大な書斎をわたしは最後に目に焼きつけ、不思議な魔法の城のような二階が取り壊されるのを惜しんだ。いま思うと、祖母の家はすこし不思議な間取りをしていた。急勾配の階段、書物で溢れた二階、三つもある応接間、家の奥に潜むほんとうに小さな寝室。一匹の猫。ふさがれた扉が二つも。

庭に面する大きな窓のある廊下は、ちょっとした部屋ほど広くて、その空間にいくつかの巨大な絵があった。その絵の整理を祖母と一緒にわたしはした。昼の光がよく入ってきていた。南向きの窓だった。絵の裏に、ひとつの巨大な写真が隠れていた。それは写真、と呼ぶにはあまりにも大きくて、少なくともA1よりも数回り大きい、ポスターとも呼ぶべきような写真で、一人の美しい女性が、ウェーブした髪をたなびかせて海辺に座っている写真だった。これはだれ? とわたしが聞くと、お上手なことを言うのね、と祖母は笑った。「昔の彼氏に撮ってもらったんだわ。モデルだったの」。嘘だろう、ともう一度写真を見た。あまりにも大きいその写真を、何十年も前の技術でどう作ったのかわからないが、少なくとも個人が気軽に印刷できるようなものではなさそうだった。わたしはそのとき、若いころの美しい写真を、昔の恋人が撮ってくれた写真を、ずっと持ち続けて、孫に見せるような大人というものにたいする憧れをしかけられたように思う。祖母は美しい人だった。

祖母はわたしが十六のときに亡くなった。

亡くなる前、祖母は父親に「あなたに何もしてあげられなかった」と言っていた。そんなことはない、と父親は返した。祖母は、伯父ばかり構ってしまった、と告白していた。あなたはそれなりにほおっておいても大丈夫だったから、と。わたしの父親は、生活面の話をするならば「手がかからない」なんてことはありえない。靴下は必ず裏返してしまうし、洗濯も料理もできないし、掃除や整理整頓はまったくまったく出来ない。しかしそれほど手をかけても、心配させても、人は死ぬ間際、「何もしてあげられなかった」なんて思うものなのか、と、わたしはその愛情の深さに、ほとんど恐怖した。そんな愛情があるのだ。それが親子の愛というものなのかと、わたしは恐ろしくなった。そんなに誰かを愛したことなんてなかったので。

祖母に何かを贈れば、きっと喜んでくれただろう。わたしは大人になったいま、ひどく旅行好きで、じつは平均すれば月に一度はどこかに出かけている。遠近さまざまな場所だが、そのお土産を毎月贈れば、きっとひどく喜んでくれただろう。事実、父と母は喜んでいる。それを祖母にはできなかった。

最後に会ったとき、祖母はわたしの手を取った。ひどく冷たい手だったけれど、かすかに体温があった。わたしはその手を握り、涙をこらえながら、祖母の言葉を聴いた。勉強をよくするように。恋人と仲良くするように。色んなことがあるだろうけど辛抱強くやるように。元気でいるように。そんな普遍的な教訓をわたしはうなずきながら聞いた。祖母は最後に、「もう来なくていい」と言った。「元気になってから、こちらから連絡するから、あなたは忙しいのだから、もう来なくても大丈夫」と言った。そして手が離れた。もう終わりなのか、と思った。

元気になる、ことなんてないと、わたしは聞いていた。祖母自身も知っていたはずだった。癌だった。よくなる見込みはまったくなかった。

一度病院を出たところで、父は母に電話をした。いま終わったよ。母は、あらかじめ取り寄せておいたお守りをちゃんと渡したかと父に聞いた。渡していなかった。わたしたちはもう一度病室に戻った。
忘れ物をしたことを伝え、お守りを渡した。祖母はありがとうと言った。起き上がったり、テレビを見たりすることはもうなくて、ただベッドのうえにいるだけだった。大事なときに忘れ物をしてどたばたしたりして、心配をかけたのが申し訳なかった。でも、いまでは忘れ物をしてよかったとせつに思う。祖母は最後に、父の手を握って、ごめんなさいと言った。元気でやりなさいと何度も言った。たぶん、祖母にとってはその言葉のほうが忘れ物で、だから、わたしたちはあの日、ヘマをして病室に二度も訪ねるはめになって、きっととても良かったのだ。

最後に話をしたのは、それから二ヶ月後、わたしの誕生日のことだ。その日は朝からどんちゃん騒ぎで、目覚めると机にケーキが置いてあったり(早朝友人の誰かが置いたのだろうが、どう考えても不法侵入だ)、部屋を出ると靴箱の上に馬鹿みたいな巨大なリボンのかかったプレゼントが置いてあった。朝の点呼の途中、監督生がわたしに小さな花束を差し出しながら「おめでとう!」と言った。まばらな拍手が響き、わたしは恥ずかしくなりながら部屋に戻った。誕生日がすきではない子どもだったのだ。扉を閉めた瞬間、待ち構えていたかのように、同室の生徒が「おめでとう」と言った。教室ではクラッカーの雨を受けた。

いつもどおり遠大なる数式をノートに写す授業のあと、PHSに入電があるのに気づいたわたしは、ふるえる手で折り返した。3コールの後、祖母が出た。誕生日おめでとう、と祖母は言った。それからいくつかのことをわたしに伝えた。プレゼントを選ぶ元気はないので、お金を送るということ。元気にやりなさいということ。勉強をがんばりなさいということ。
わたしは、まともにものを言えなかった。もっとわたしは何かを言うべきだったのに、なにも言えなかった。なにを言えばいいのかも分かっていなかった。わたしは努めてやさしく返事をした。祖母との電話はすぐに終わった。わたしはそのあとしばらく、なにも考えられなかった。あんなに弱弱しい声を出すのに、もういつまで命があるかもわからないなか、わたしの誕生日を覚えていたのだ。

わたしは愛を信じている。

それはすべて祖母と、そして父のおかげだ。二人以外の何者のおかげでもない。
もちろん、もう一人の親である母がわたしを愛していないとは思わないし、母からは母からでほかにさまざまな大切なことを教わったけれど、しかし無償の深い愛情の存在をわたしが信じていられるのは、祖母と父がわたしをそういう風に愛してくれたからだ。かれらはとても愛情深い人たちだった。

祖母の葬儀の喪主はとうぜん、父だった。父の挨拶を覚えている。
父はまず、「わたしは死ぬのが怖い」と言った。わたしもそうだった。あのころ、わたしは死ぬのが恐ろしくて、しかしそれでも、三十になるまえに自分は死ぬのだと、なぜだかそういう気がしていた。(誰だってそういうことがあると思う)。父は続けた。「しかし、昔はもっと怖かった。どうやって人は死の恐怖を乗り越えているのだろうと、不思議で仕方なかった。けれど今はそれほど怖くはない。怖いとは思うが、昔ほどではない。それはおそらく家族や仲間がいるからで、そういう関係がひとつ増えるたびに、死の恐怖が少しずつ薄れていくのを感じている。母もきっと、みなさんのおかげで、死はそれほど怖くなかったのではないかと思います。賑やかなのがとにかく好きな人でしたので、どうぞ楽しく団欒のうえ、母を見送ってあげてください」。

わたしはその挨拶でようやく泣いた。もちろん、祖母の訃報を聞いたとき、実際に祖母の遺体の前に立ったとき、どうしようもなく涙がじんわりと瞳の奥から出てきたけれど、でも、それだけだった。思い切り泣くということはなかった。だけど、その弔辞を聞きながら、せきとめていた涙があふれたように、ただただ涙が流れた。わたしは死というものがもつ喪失の力を、さいごに祖母に教えてもらった。そのあとわたしは何度も、長期間にわたり、発作のように泣く日があった。

参列のなかで、祖母の友人たちは「なにも知らなくて、お見舞いにもいけなくてごめんなさい」と言った。祖母は友人たちに自分の病気のことを隠していた。どうしてなのかは分からない。病気の姿を見せたくなかったのか、気を使わせたくなかったのか。

触ってあげてください、と勧められて、わたしは死に化粧の終わった祖母の頬を撫でた。ひどく冷たかった。四ヶ月ぶりに触れた肌は、あのころも冷たかったのに、今はもう、ほんの少しの温かみすらなかった。命とはなんだろうと思った。今目の前にいる祖母は誰なのかとも思った。そんな風に感じたのは、祖母の顔がどうにもわたしの知る祖母の顔と違っていたからだ。どうしてかひどく若々しい顔つきだった。白く、しわが少なく、美しい顔つきをしていた。

こんな詩も書いた。

 

それは穏やかな午後のことだった。
白い鳩は紫色の空を滑空して訃報を私に伝えてきた。
何処かで知らない鳥が鳴くのが聞こえた。
耳をふさぎたくなるような高音の鳴き声は、嬉しいのか哀しいのかどちらとも取れなかった。

次の日に蒸したような暑さの中で葬儀は行われた。
太陽は高くて棺からは遠かった。
葬儀屋は具合を悪くして早退してしまった。
死者は何故か若々しい顔つきをしていた。

大きくベルがかき鳴らされた。
どこか荘厳だという気がしていた。
馬鹿馬鹿しいほどあっけなかった。
手順と仕来りで凝り固められた式を見て気づいた。

弔いは生きている人の為のもの。
鎮魂歌は歌わない、貴方は何よりそれが嫌いだったから。
死者の相手はきっと天使がするだろう。
私達はせめて地上の悪魔にならないように祈るだけ。

――そうして大きな棺は土の中へ消えてしまった。


”貴方の見る夢が幸せでありますように”
”貴方の上の十字架が重くありませんように”

沢山の、貴方の為に祈りを捧げる人達の中で、
ようやく自分を思い出した。

”さようなら”
”ありがとう”


空には鳩がいて、紫色の空を滑空していた。
まだ埋められたばかりの穴から土の香りがしていて、
足元を今バッタが飛んだ。

それは穏やかな午後のことだった。

 

祖母が死んでから、わたしはこう思うようになった。長生きしよう。わたしのためではなく、わたしの子供の子供のために。わたしの遺伝子を受け継ぎ、きっと感情が細やかで、感受性豊かで表現や創作を愛する、いや、そうならないかもしれないけれど、でもわたしと同じような不安定さを持つかもしれないその子が、その生涯のなかで、愛をどっぷりと信じられるようになるために。わたしのように。


以上、わたしが愛を信じている理由について、でした。