@particle30

惑星イオはどこにある

月と六ペンス

 

偉大なる小説は、冒頭三文に必ず神が宿る。*1

 

その教理に基づくならば、「月と六ペンス」はページをめくったその瞬間に「偉大」であることが判明する稀有なる小説だった。*2

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

 

序文はこうだ。

「初めて会ったときには、ストリックランドが特別な人間だとは思いもしなかった」

 

この本は、たった一人の天才画家「チャールズ・ストリックランド」をひたすら追う主人公「わたし」の物語である。その狂気と執着のすべてを追う旅。

ストリックランドのモデルはゴーギャンであることが知られているが、あくまでも「モデル」であり、ゴーギャンそのものの話ではない。*3

 

 

さて、これほどに面白い小説があるとは知らなかった!

 


こういう作品が書きたい。
最初から、最後まで、何かが発展したわけでもなく、主人公の何かが変わったわけでもないのに、でもどうしてか読み手の私が根本から組み換えられている。文字が私の精神を変質させる。それはちょっとした勢いづけや、気分の上下といったものではなくて、もっと化学的な変化で、不可逆だ。タンパク質が溶けるようなことだ。

 

ストリックランドは安定した暮らしと妻子を捨て、異国へ向かう。そこでひとつの平凡だが幸せに暮らしていた夫婦を破滅させて、さらに遠く、最後はタヒチへ向かう。タヒチで彼は生涯をかけた絵を描く。概要にしてしまえばたったそれだけの話だ。ゴールもなく、教訓もなく、ただ美しい文章だけがそこにある。ただただストリックランドが台風の目になって、周囲を荒らしに荒らすだけのものがたり。この小説においては、三人の女がストリックランドの人生を取り巻いている。最初の妻、破滅した夫婦のかたわれ、タヒチでの現地妻。

この小説において、「愛」はひとつのテーマだと思う。
けれど彼がほんとうに恋をしたのは、愛したのは、おそらく女ではなかった。人間ですらない。彼が愛したのは、主人公の「わたし」が呪文のように唱えた「説明してもらえませんか?」に終わる長台詞だったように思う。この台詞は小説の中盤で出てくるが、この場面を読み終えたとき、わたしはこの小説はかならず傑作であると確信した。引用しよう。

 

「そして、奇妙なことが起こる。終わったとき、あなたは信じがたいほど清らかな気分になっている。肉体から遊離した霊のような気分で、まるで物質に触れるように、美に触れることができると感じる。そよ風や、芽吹きはじめた木々や、虹色にきらめく小川と交感できるような気がしてくる。まるで、神にでもなったかのように。そういう気分を説明してもらえませんか?」

 

本作においてはこの場面だけが、他とは違う異彩を放っている。

他の場面では、「わたし」によって、様々な事象は解説されつくしている。分かりづらいストリックランドの言葉も、「わたし」の手によって全て綺麗に漂白のうえ整頓され、ならんでいる。「わたし」のやることの動機もすべて説明されつくしている。しかし、ここで「わたし」はどうしてか、突然ストリックランドに上述の台詞を述べるのだ。ろうろうと、歌うようなリズムに思える。どうして「わたし」がこんなことを言ったのか、それは明かされない。ただただ無法者のストリックランドを追いかけているだけだったのに、ここで唐突に、「わたし」はストリックランドに謎かけをする。このシーンだけが、恐ろしく理解不能だ。


しかし、ストリックランドはおそらく、この言葉にずっと支配されていたのではないかという気がしている。そして天啓というのはこういった類のものだ。与えるほうにも、与えられるほうにも、衝撃を下しながら、その実それがどこからきたのか、本質的には誰もわからない。

 

そしてストリックランドはラストシーン、その願いに答えた。
呪いといってもいい。彼を追いかける、ひたすらに取り付いて離さない恐ろしいこの台詞から、ついに開放されることができたのだ。彼は「説明」した。壁一面の絵を描くことによって。

 

たとえば、「夢」は呪いだという人がいる。ストリックランドにかけられた魔法があるとしたら、呪文は上記の台詞だ。彼はこの言葉を聞いて「拷問にかけられて死んだ人はこんな顔をしているのだろうという表情」になった。つまり、呪われたのだ。

 

 

自分の話になるが、わたしは、かつて「たすけてくれ」と縋りつく子どもを宥めるために小説を書いていた。今は、「うるさい」となにかを撥ね退けようとする声のもとへ向かっている。
そして、ストリックランドにとってのこういった呼び声は、主人公の発した上述の長たらしい台詞だったのだ。いわく、「説明してもらえませんか?」

 

 

きっと彼の頭のなかにその言葉が何度も渦巻き、離れず、ふとしたときに聞こえ、どうしようもなく彼を狂気へ、つまりは月へと誘ったに違いない。月は狂気で、六ペンスは生活だ。月は夢の彼方のことで、六ペンスは身近な今日の飯の種だ。

 

わたしの持っている本ではないが、他の文庫本の解説には、「ストリックランドのことを追い求める主人公、という筋書きは、同性愛的な側面もある」と書かれているそうだ。しかし、わたしはこの物語を恋の話だとは思わない。たしかにエッセンスとして「男」と「女」が描かれており、また時代性もあって「女」がきわめて特殊な生きものに描かれているようには思うが、しかし、この本の本質は恋ではないと思う。*4

 

この物語は、どうあっても芸術、美に心惹かれ、そのままに生きた男を書いた物語だ。厳密には、芸術家は三人でてくる。タヒチで果てた狂気のストリックランド、才能がなくても金を稼ぎ芸術に魅入られ続けたストルーヴェ、そして、そんな彼らを「観察」して書き残した書き手の「わたし」。

 

前述のとおり女も三人出てくる。最初の妻、ブランチ、そしてタヒチの妻であるアタ。それぞれにストリックランドを愛した。あるいは愛すると信じていた。

 

しかしストリックランドが恋したものがあったとすれば、やはり「わたし」の言葉だけだろう。

 

 

そして最後に書きたいのは、ストルーヴェは果たして凡人なのだろうか、ということだ。これほどに美に焦がれ、全てを投げ捨ててなにかに賭けることが出来る男が、果たして凡人たりえるだろうか。天才というのは大きな欠落のことであると感じる。ストリックランドに良心や共感が欠落しているのだとすれば、ストルーヴェには自尊心と羞恥が欠落している。

 

また、さらに言うならば、ストルーヴェはほんとうに善人なのだろうか。私がもし、ブランチだったとして、彼のかの言葉――どうしようもない時に、助けてもらった経験はないのかというかれの優しくも愚かで残酷な詰問を、許すことが出来るのかどうか、という話だ。そう言われたブランチは、きっとストリックランドに恋をするにあたり、思ったことだろう。「この人はこんなことは言わない」と。ストリックランドは少なくとも、恩に着せることはしない。そもそも女になにかを与えることがないために。

 

 

 

欠落。欠損。狂気へさそう呼び声。その全てが書かれている本だ。

 

私も文章さえ書けるなら、この腕のなにをとられてもかまわないのに、残念ながら今のところ目立った欠落は見つからない。

 

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

*1:わたしはこの信仰に呪われて一文字も書けない苦しみも味わったことがある。

*2:この本は訳者も素晴らしい。金原瑞人さんという方の訳だそうで。他の訳者の本はどうだろう、と少し本屋で覗いてみたが、この本が一番だ。新訳ということもあり読みやすくなっているのでしょう。この青い表紙の本を皆さんどうぞ買ってほしい。ただ英語を日本語に読み替えただけの「訳」ではなくて、リズムや思想がちゃんと考慮されていて、とても読みやすいし、真意が明らかである。訳者の名前で検索したのなんてハリーポッター以来じゃないかな。バーティミアスを訳した人なのですね。

*3:もともとゴッホが好きだった。ゴッホゴーギャン展にもよろこんで足を運んだ。ただ、ゴーギャンの絵にはそんなに好ましいと思えるところがなかったので、基本的には「ゴッホ」を知るためにはゴーギャンも欠かせないよな、というような考え方でかれの絵を眺めた。しかし、「月と六ペンス」を読んで、ゴーギャンの絵をもう一度見てみたい自分がいる。たしかに、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の絵は、なにかで一度巨大なコピーを見たことがあるが、すばらしかった。

*4:「夢にも思わない」でも同じようなことを書きましたね。『この本のテーマは恋ではない』