@particle30

惑星イオはどこにある

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

 

 

わたしは「最初の一行だけ読めば小説の出来は分かる。もっと言えば、タイトルだけでも分かる」という一文によく傷つけられていて、それは自分のタイトル名づけのセンスがあまりに壊滅的だからでもあるのですが……、この小説は、本棚のなかにしまわれている状態の背のタイトルをみるだけで、「面白い」って直観できる題名だよなあ、と深くおもいます。*1

 

※以下、すべてネタバレありの感想記事ですが、もし私だったら、このネタバレを読んでから本編を読んでも別に大丈夫かな、と思います。(主観です)(本自体はわりあい短くて読みやすいので、すぐ手に入るならさくっと読めますよ)※

 

 

 

 

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

「実弾」と「砂糖菓子」。

 

 

 

 

不幸だと思っていた自分の境遇が、まるでなんでもなくて、

お菓子の家で過ごしていたのは自分のほうだったと知る話。

むしろ、兄を神のままに「飼育」して、優雅に楽しんでいたのは自分のほうだった、と。

 

十四歳の子どもが持つ「閉塞感」は、ある種特権的なものだとおもう。

 

 

 

 

「傍観者と飼育者のロール」をとても真摯に書いている作品だと思う。

 

どうして十四歳の子どもってのは、傍観者にあこがれるものなんでしょう。まだまだ世界は自分の手の中にある小学生と違って、自分の道を決めて進み始める高校生と違って、中学生はそのはざまにいて、受験のことに多少悩んだりはするけれど、まだまだ「本当の選択」はすこし先に用意されている、いわば階段の踊り場にいられる3年間。

 

そんななか、主人公のなぎさはどうあっても「飼育者」として描かれている。

 

 

 

 


そして物語は、「美しい生き物と飼育者」の話に転じる。


成長期にある少年少女にとってーーいや、いや、ぜんぜんそれだけに限らないのかもしれませんが、とにかく人間にとって、他人を養育したり面倒をみてやっているという感覚は、なかなか気持ちがいいものです。そして彼女は美しい兄を飼っている。

兄は浪費家で、美しくて、優しくて、賢くみえる。価値のある人間に見える。そういう人間の飼育者になれるのは、自分自身まで神になったようで気持ちがいい。そしてこの愛は愚かなことかもしれないけれど、そう珍しいことでもありません。事実、わたしはこの「神」が出てくるシーンになってようやく、この小説はひょっとしたら読む価値のある小説かもしれないぞ、と思い始めました。美しい男がどうにもこうにも好きなんです。なんなんでしょうね。

 

 


「そして立ち現れる現実」。

 

物語の後半、急展開に、
砂糖菓子の世界が解けて、グロテスクな現実があらわになる。
大切にしていたあめだま(兄)はわたあめが飛んでくみたいに神性を失い、

なぎさの口のなかからきえて、ほのかに現実のかおりがせまっている。

 
飼育物をうしなったなぎさは、もはやなにかを見下ろすだけではなくて、顔をあげて生きていかなくてはならなくなる。そんなにあからさまでなくたっていいのに、と思うほど唐突にしっかりと堅実にただしく間違いようもなく恐ろしいまでに、現実は、少女の前に姿を現した。

 
 



そしてこの小説を衝撃をもって受け止めることができず、ただ文字をなんとか追いかけて読み*2、最後の結末にも、感じるところがありながらも、ただ静かに本を閉じていられる、鈍くなった自分の心の変化、劣化、あるいは進化を読み取ることができたのが、いちばんの収穫であるように思います。中学生のみなさん、はやくこういう小説をたくさん読んでください。

 

 

 

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*1:やっぱり、やっぱり、題名が良い。題名のおかげでおおきく成長した作品はほかにも結構あると思っていて、たとえば「限りなく透明に近いブルー」なんかは、泥のうえにある上澄みをあつかったような作品だという感じがあるけれど、やっぱりそれって、題名が「限りなく透明に近いブルー」だからなんですよね。そうでなかったら、ただの泥(だったとしても、凝り固まって見ごたえのある美しい泥なんだけど)だと感じてしまうような気がします。

*2:ストックホルム症候群」だとか「サイコパス判定のクイズ」だとか、あまりにあからさまな、と思ったけれど、むかしはこういう小説って多かったような気がする。ノウハウ小説とか、ネット小説とかが増えたからか、こういうことを「読者が知らない体で」書かれた小説ってもはや珍しくなってしまったのかなあ、と。