@particle30

惑星イオはどこにある

2020/05/04

 言いたいことがなにもなくとも、未来のために、きちんと日常を記録したい――という内容の日記を書いてから、次の日記を書かず3か月ほどが経っているようです。そろそろ書こう。

 

 今日は友人1が友人2を裏切っている夢を見た。くだらないおじさんに騙されて、変な絵画(数十万円する)を友人1・2の連名で購入してしまったのだ。友人1が持ってきた押印済みの契約書を見て、これはとんでもないことだぞとわたしは顔を青くする。友人1とわたしとの二人きりで解決するかどうか一瞬悩んだけれど、結局友人2にも素直に話す。友人1は顔を下に向けている。そんなふうに怖がるぐらいならこんなことしなければいいのに――というところで目が覚めた。なんてとんでもない無礼な夢をみるものだろう。夢は願望の現れだとか、記憶の整理の結果だとかいうけれど、この夢はいったいわたしになにを伝えようとしているんだろう。

 

 それほど夢を見ない子どもだった、とおもう。反して周囲の友人や同僚たちは、毎夜夢を見るひとたちばかりだ。えっ、たまにしか見ないんですか、忘れちゃうんですか、とちょっとびっくりされながら聞かれる。忘れたとかそういうんじゃなくて、たぶん夢は見ていない、そういう夜を過ごしている――と思う。そういえば先日、これはけっこうな衝撃を受けたのだが、夢のなかでなにかを考えたりすることができる人もいるらしい。もしかして、これもあたりまえのことなんでしょうか? ちょっと悩みごとがあるから、眠ってからいちど考えよう、との旨の発言を聞いて、わたしはてっきり「ねむる」→「起きてあたますっきり」→「かんがえる」というプロセスをとるのかと思ったのだけれど、その人は「ねむる(夢の中でかんがえる)」→「起きてあたますっきり」→「(再度)かんがえる」というプロセスをとれるそうなのだ。これがほんとうだとしたら、わたしはかなりの時間を無駄にしていることになる。睡眠時間のすべてとはいわないまでも、数十分でもいいからなにかを思索する時間に使えたら。現実世界しか考える場所がない、っていうこと、けっこう辛いことなんですが、これをお読みのあなたは、わたしの側に立ってずるいと思ってくれますか、それとも眠りながらものを考えることのできる人ですか?

 

 そういえば昔、「2時間待てば、2時間が経つ」とそんなふうに思っていた時期があった。とっても当たり前のことに思えるでしょう。でも、2時間待てば、2時間経つ、きっちり経つ、時間は一秒も盗まれないのだ、ということが救いになっていた時期がわたしにはあったのです。毎日時間があるのが苦痛で仕方なくて、どうしてこうやることがないのか、ああなにもやる気にならないし、と悲しい気持ちになって、時計を見つめたりしているうちに「でも、2時間待てば、2時間経つんだよね」と気付いて、時間っていうのはほんとうに平等でやさしいなあと思った。――こういう感情を、一つずつでいいから思い出したい。学生時代にわたしが宿していた思想や感情に、もうアクセスする手段がひとつもないのは損失におもえる。

 

 そういえば、話はとつぜん大きく変わりますが、「Polaris」という小説を完成させました。書いているときから、これは少なくとも傑作にはならないだろうな、という気がしていた作品でした。ふりかえってみて、たしかに花丸満点の出来とはいわないまでも、そんなにわるくないんじゃないか、好きだといってくれる人もひょっとするといるんじゃないか、という気がします。「小説家になろう」とエブリスタへ、投稿しました。小説家になろうのほうが読者数は多いんですが、エブリスタのほうが本棚登録数やスター数が見えるだけにやる気がでますね。好きだと言ってくれる人がでてくれるかどうか、待とうと思います。だれかが気に入ってくれたらいいなあ。そして、そういうつもりはなかったのですが、結果的に「死」を扱った作品になってしまいました。全般的に軽くなりすぎたのではないかと心配ですが、胸やけしそう、でも食べれる、ぐらいの腐りかけのケーキを目指しました。ただ、そのなかでもあまりに文章が分厚くなりすぎないように、リズムなどには気を払ったつもりです。これでは薄すぎるのではないか、もうすこし描写を多めにしないとわたしの良さ(そんなものがあるとすればですが)が出ないのではないか、とコメントくださったかたもいて、おそらくそれは至極の真実なのですが、あまり分厚くすることでそもそも読んでもらえない、ということもあるんじゃないかしらと思って、結局こういう風な味付けにしています。

 

 作品を書く人がいっぱいいて、そのなかの一人として、わたしは書いている。だから、わたしはわたしで意味のあるものを書かなくては。みたいなことを、ずっと考えていました。周囲はライトノベルを書くかたが多いけれど、わたしはやっぱりそういうものは書けないし、だからといって「純文学」でやっていけるほどでもありません。まあ、どんなジャンルでもべつに「やっていける」ほどのものはなにもないけれど。

 ただ、文章を褒めてもらえることは多いから、そこを強みにしていこう。とはいえ改行のない分厚い文章だとだれも読んでくれないから、ポエミー要素も挟んで、読みやすく、読みやすく。そうすれば強みを効果的に使って、弱みの傷をやさしく包む物語になる。そういうふうに戦略立ててやってきたつもりだったんですが、周囲に似たことをやっている人が少ないような気がして、なんだか自信を失っていました。その喪失はただしくて、やっぱりわたしはこの世界にどんな文章があるのか、があまり見えていなかったんだと思います。最近、家にいる時間が長いこともあり、いい文章に触れる機会が多くなっていて、ただただ自分が不勉強だったんだと知りました。ああいう小説もある、こういう小説もゆるされている、では、わたしが書けるのは? わたしが書きやすい小説は、いったいどういったものだろうか? すぐに完成できるはずはない、何度も何度もやり直して、それでも到達したいと思える文章の型はいったいどういうものだろうか。

 

 もう少し、なにかを(自分なのか、作品なのか、そのどちらでもないのか、分からないのでこういう書き方をしていますが、とかくも”なにか”を――)信じることができたなら、あるいはもうすこし違う作品も書けるでしょう。分厚い文章を書くべきか、ポエミーに読みやすく書くべきか、でもこれだけだと胸やけしそうだからちゃんと新しい文体を作るべきか。自分らしさとはなにか、自分らしいってなあに、自分らしくある必要なんてあるの? まあ、いつもの悩みに帰ってきたわけです。これは幸せなことなので、ご心配いただくには及びません。

 

 という渦中、3年前ぐらいに書いた、オブシウスの物語「オルシアと緑の術士」をエブリスタに投稿したら、新着ピックアップに取り上げていただいて、多くの方に読んで頂くことができました。この作品は序盤がかなり読みづらくて、失敗作だととらえていましたし、事実Twitterに掲載していた時には最後まで読んでくれた人はおそらく一人もいなかったんじゃないかと思います。

 

 ではどうして今なら読んでもらえるのかというと、まあ正確な理由はよく分かりませんが、時間が経ったことでわたしがわたしの文章に対してちゃんと向き合えるようになった、ということが大きいでしょう。そもそも向き合えもしない文章をよくも2万字も書いていられたな、と思い、これはけっこう不思議だったので、当時の精神状態を知ろうと三年前の日記などをあさろうとしましたが、ひとつも残っていませんでした。まったくこれだから嫌になる。日記は書けって言っているでしょう!

 

 しかしTwitterや手帳の感じから分かったこととしては、すっかり忘れていましたが、2017年1月の末にわたしの人生には酷い喪失の事件が起きて、2017年4月に実際に悲劇は実行され、その後半年あまりけっこう自由な時間を得ていたのでした。2017年12月頃から、かえってとっても忙しくなるんですが。オブシウスの物語は、2017年5月中旬に書き始めて、6月初めには出来ていたようです。2週間で2万字。1週間で1万字。このペースを守れれば、年間5本の長編が書ける。

 

 でも、そのまま継続して書こうという気にはならなかった、ということなんだとおもいます。そういえば2017年5月は文学フリマに初出店した月ではないか。たぶん、小説を褒めてもらえることもとっても多かったし、感想を貰えることも多かったし、色々いいころ合いだったんでしょう。Twitterアカウントも作ったばっかりだったし。新しい出会いを増やせば多少はいろいろやってみる気になるだろうか。

 

 

 こんな、ただの吐露みたいなの、ほんとうに意味があるんだろうか。と思わなくもないけど、4年前とか8年前の自分が書いたこういう文章、好きなんですよねえ。もう殆ど残っていませんが。どうだろう、2024年のきみ、2028年のきみ、この文章は、読みたい文章ですか。それともつまんなくて破り捨てたくなりますか。

 

2020/05/04