@particle30

惑星イオはどこにある

20200520

 

 もう6月になりそうだなんて信じられますか。世界はやさしい蓋がされたまま日本は梅雨が始まってしまって、東京は晴れの日が減りましたね。雷や雨の音が好きです、家の中でする読書が好きです、だから今はなかなかいい季節です。段々コンスタントに小説を書けるようになってきました。労働と通勤に使用される時間がぐっと減ったのが原因でしょう、とてもうれしい。最近は辞書を毎朝一頁ずつ読んでいる。しらない言葉がおどる紙面は楽しい。しっている言葉も、ああ、そういう意味の言葉だったんだ、ってもう一回出会えるみたいでたのしい。

 

 昨日は久しぶりに英語でMTGがあった。事前に、「ところで言語はなんなんでしょう?」って聞いたら、むこうはなにかに気付いたみたいに、「ああ、なるほど。すみません、通訳をちゃんと用意しておきますよ」とか言っていたから資料だけ適当に英語と現地語にして送付しておいた。自分が責任を持たない、メインで話す必要も、メインで話す人のサポートをする必要もない会議はひさしぶりだ。そして眠たい。責任はちゃんと覚醒を促すけど、無責任でいるとなにもかもがつまらなくなってしまう。それはどんな人間にとってもそうなんだから、やっぱり新入社員が会議で眠そうにしているのを咎めるのは(正当ではあるけど)ちょっと無神経なことなんだろう。最近、どうして会議で居眠りする人がいるんだろうなあ、って不思議におもっていたきがする。ばかです、わたしも一年目のころは毎日がねむたくてねむたくて仕方がなかった。

 

 通訳を用意しておくといわれた会議は普通に現地語で始まって、さすがに英語じゃないとなにも分からない。どこの国の言葉なのかも怪しい。いくつか混ざっている気さえする。さすがに進行に無理があると気付いてくれたらしくすぐ英語に切り替わった。英語を母国語としない人同士で、英語で話をするのは、ある意味ことばがとってもまっすぐに「記号」として用いられているということで、そういう空間にいるのはすきだ。自分が話したりするのは好きじゃないので、わたしも多少関係のある興味をもてる話題のなかで、そこそこみんなで好きに会話をしていてほしい。

 英語で話をするときには記号のやりとりをするみたいな感覚だから、べつに言い回しがネイティブらしくなくてもいい。というかそういうフレーズは邪魔になるかもしれない。ビジネス会議で、「その言い回しをそもそも知っていないと理解できない表現」みたいなものを使いだす人間には(相手であれ身内であれ)困ってしまうことがあって、かといって「軽い勉強をしていればだれにでも伝わりそうなフレーズだけ使ってくれませんか」なんて向上心が低くてかつ文化にたいしても失礼な物言いをすることはできない。しかしそういう「話し方」をネイティブも身に付けなくてはならないのではないか、という話もあるそうで、そういうのをグロービッシュ(global + english)というそうだ。慣用句のない、はっきり意味を割り切れる表現しかしない、そういう英語を使おうという考えをする人もいるとかいないとか。

 もちろんどちらにせよ私たちは英語を勉強するしかないわけだけど、しかし自分の国の言葉がそういうふうな「公用語」だったら、どういう気分なんだろう。日本語は、日本に生まれた人と日本語を学びたい人ばかりが学ぶ言語な気がしていて、日本に住んでいないしその予定もないのに、必要に迫られ日本語を学ばなければならない、みたいな人はそれほどいない気がしている(まあでも世界のどこかにはそういう人もいるのかもしれない)。でも日本語が記号として世界中で使われるようになり、国際会議でも日本語でものを喋ればいいようになったとき、わたしはちゃんと日本語を記号として扱えるだろうか、ちっぽけなプライドふりかざしたりしちゃわないだろうか。やるだろうなあ。わたしにとっての母国語が世界の公用語的なポジションを得ていなくてよかった。わたしにとって日本語は水で、温度があって、人を刺したりできる、言葉のなかで明白には書いていないことを伝えられる、だれかを温めるココアになることもある、わたしそのものかもしれないもの。ことばって大事だ。日本語がすきだ、なんてしみじみ思うことは普段はほとんどない。日本語しか知らないから。でもふとしたときに、自分が活字やことばにどれだけ思考や感情そのものを浸し頼り依存しきっているかを目の当たりして、怖くなっちゃうことがある。

 

 ところで――あくまでも、ダメな人間にとっては、という前提をかならずつけて話をする。サラリーマンの仕事っていうのは、昨日と同じパフォーマンスを出せていなくても、今日の給料が減ったりしないし、逆に今日1億円儲けることがあったとしても、それが自分の財布のなかにそのまま入ってくるわけじゃない。変動が少ない。だから「安定している」。特に研究職や開発職は、手戻りやテスト期間が長くても、運用にやたらとお金がかかるものを作ってしまっても、だからといって直結して給与が減ったりすることはない。年功序列。とてもゆるやかでやさしいエスカレーター。

 同期と話をしていた。仕事が嫌だねえ、あれが面倒くさいねえ、という愚痴を言っていた。同じチームの同僚や、家族や、友人とは、そういう話は一切しないことにしているから、業務においてはこれまでも今後もほとんど関係を持つことはない同期としかこういう話はしない。仕事は、とても大切なものだと分かっていてもないがしろに扱いたくなるときがある。たしかに価値を与えてくれているんだと分かっているのに嫌いになる。「仕事」は思春期の子供にとっての親のような監督者で、いろんなものを与えてくれるのに、たしかに今の自分に必要だと分かるのに、まっすぐ好きだと言いづらい。たまにそう思えることもあるけど。

「だからさ」と彼は言った。「これは一つの矯正施設だと思ったほうがいいのかもしれない。特に今日のような日はね。外は青空でかがやいている、オフィスからは東にビル街、西には鱗雲が見える、遠くに電車がはしっている、おれはどこかに行きたい。でも毎日飛び出しているわけにはいかない。このビルってさあ、ちょっと水槽みたいだよな」

 当時の職場が入っていたビルは、外窓が全面ガラスだった。近くに寄って下を見るのが怖い人も多いようで、窓までにはある程度の余白も取られていた。とはいえ偉い人は窓近くの席になる。窓に背を向けてオフィスをながめられる席になるのだ。「おれねえ、高所恐怖症なんだよね」という本部長の席の後ろには、ポスターやらおみやげの箱やら、いろんなもので窓の塞ぎがしてあった。わたしはスカイツリーの透明床もぜんぜん怖くないぐらいだから、そういうのに共感はできないんだけど、いつだったか販促ポスターを作った時に目隠し用に1枚寄付した。

 その、全面窓は、夕暮れのときがいちばん美しい。ほんとうに綺麗だ。ビル街の端っこに建っているために、西側は眺めがいい。ほかに高い建物がない。一番向こうのほうには山が見えたりもする。とっても都会にいるはずなのに不思議だ。住宅街のなかを通るオレンジ色の電車が見えるたびにこころがきゅっとする。毎日、雲と夕暮れの光とがぽうと光って幻想的になる。空が綺麗なのは、海が綺麗な場所における、特権的な景色なのだとずっと思っていた。でも違った。都会の空は綺麗だけど見えないだけだ。見晴らしのいいところから見ればそれなりに感動できる。季節にもよるけれど、ちょうど退勤時の夕暮れ頃にいちばんきれいになる。仕事の手を止めたくなる、ずっと見ていたくなる。水槽みたいな四角い箱のなかから、冬でもクーラーの効いたオフィスのなかから、夕暮れを眺めている。とてもきれいだ。ほんとうに好きだった。

 

 じぶんの思想や感情を、記号みたいには扱えない。これは水だ。

 

 

 

 やっぱりたくさん書いている人間になりたい。それを一つの場所でちゃんとお見せできるのかどうかはわからないのだけれど、でもいろんな場所をつくって、どこかではちゃんと書いているわたしでありたいと思っています。

 エブリスタでスターをいただくたびに、昔の本を褒めていただくたびに、なにかが閉じていくような気持ちになることがある。原因はよくわからない。でも、今日なにかを書くことができれば、明日なにかを開くことができるだろう。