@particle30

惑星イオはどこにある

2020/06/03

手帳をなくしてしまった。そうするとどうも過去をすべてまっさらになくしてしまったような気持ちになっていけない。正直なところ、手帳がなくてはわたしは、今日なにをすればいいのか思い出せないほどに記憶力がない。昨日やったことも思い出せないし、今日が何月何日なのかも分からない。季節感がない。すべては毎朝手帳を開き、セーブデータをロードするみたいにして思い出す。しかし、「今日なにをするべきか」「昨日どうやって生きたのか」「今は何月なのか」というようなことは、元来、手帳に覚えておいてもらわなくてはならないことだろうか。こういったことを毎日手に書いて思い出さなくてはならないのだとしたら、そもそもの生活様式を見直してみたほうがいい。毎朝うまれなおしたような気持ちでいるから、勝手にそういう気分でいるから、朝起きたとき、今日がどの季節に属するのかもわからない。スマートフォンの日付を見て、毎日、今日は六月なのかあ、と思ったりしている。つい三日前まで五月だったらしい、印象が薄すぎる。そんなふうだから手帳にいろいろ書いているのに、それが失われてしまった。またまっさらに2020年を生きなくてはならないような気持ちになっている。今年の1月頃はなにを考えて生きていただろう。

そういえば、ユアグローの新作短編を買った。今年はなぜか彼の名前を思い出すことが多い気がする。去年の暮れにユアグローを紹介した男の子が、まさにぼくはユアグローのような作家になりたかったのですと年明け頃に連絡をくれた。そんなに刺さったならよかったなあと思った。ユアグローの作品は悪夢の実例、代用品、巧妙なレプリカであり、夢を見ない私にとってはサプリメントのようにときたま摂取したい作品のひとつだ。うつくしい悪夢を文章にしてみせてもらえたとき、まず初めにわたしはユアグローを思い出す。かれの作品はどこか展示品のような感じがする。

 

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題名は、「ボッティチェリ・疫病の時代の寓話」。この短編集の一作品目が「ボッティチェリ」で、とある架空の疫病についての物語だ。ユアグローをご存じない方へ、きわめて簡単な補足をここに残しておく。かれの作品は、不条理で、悪夢のようで、そしてだいたい1ページか2ページ以内に収まる。「ボッティチェリ」も例に違わずそのような小説だった。いま、わざわざ、疫病を書くということの意味。いや、そもそも悪夢を題材にするならば、いま、疫病以外のことをテーマに選ぶのもなかなか難しいことなのかもしれませんが。

「疫病」という呼び名は、今用いるには、古めかしくて大袈裟な感じがする。でも百年後から今日を振り返れば、この現状は疫病にくるしむ人々の姿そのものでしかないだろう。「疫病」という言葉の響きに、過去にたいしてあてるような古さがあるから、現在という時代に似つかわしくないように思うだけで、このイベントが歴史になってしまったあとはこれ以上はないほど似合うラベルにきっとなる。今わたしたちは疫病に苦しんでいる。

ところでこの「ボッティチェリ」のなかで書かれる疫病は(まさに、「ボッティチェリ」という名前の疫病なのだが)、最初の一文をいっそここに引用したくなるぐらいに心切ない症状を持っている。一文目を読んですぐに、ああこのうすぺらい本を買って心底よかったとそう思った。ここに悪夢がある。ここに絶望があり、人間の卑しさがあり、病というものが持つ無限のくるしみがある。人間がなにかを苦しいと思うとき、これは悪夢だと思うとき、間違いなくこのような絶望を母親としている。

わたしは夢を見ない。同僚は毎日見るのだそうで、ついに昨日の夢が「テレワークが日常になった世界」に切り替わったと教えてくれた。夢の世界にまで、この非日常が浸透したということだろう。たしかに。自分のなかでよくよく理解がしみこまなければ、夢の世界の構造までは変わらない。とするとほぼ夢を見ないわたしにだって、初めて小学校の夢を見た日、初めて会社で働いている夢を見た日、というものがあるはずだ。きっと現実よりも数か月遅れで夢の世界はそういう「舞台設定」に同期したはずだ。まったくそういう夢のことを覚えていられないのがすこし寂しい。テレワークが始まってから、まだわたしは夢を一度も見ていない。だからユアグローを読む。もう初夏なのだと、季節を思い出しながら読む。明日手帳に「九月一日 寒くなってきた 今日はお休み」と書かれていたら、わたしはその悪夢をまったく疑わずまるのみして信じる一日を送るだろう。

 

 

 

バリー・ユアグロー「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」|恵文社一乗寺店 オンラインショップ

2020/06/03