@particle30

惑星イオはどこにある

音楽と才能

 

 自分の才能を自分で「見つけ」ることができるのか、という問題。ハリーポッターの寮の組み分けみたいに、HUTNER×HUNTERの水見式みたいに、あるいは拙作・魔術士シリーズの気脈のように、自分の才能や素質を幼いうちに、誰かに教えてもらえるのが一番だが、あいにく現実の世界にそんなものはない。せいぜいが内申点センター試験の結果が多少参考になる程度であって、それだって「その人の素質」を図るものとして眺める人は殆どいないだろう。もちろん学力や成績には生まれ持っての素地がある程度ならず影響するものの、原則的には特定の期間における努力の結果が反映されているとみるのが適切なように思える。生まれ持ってのものもあれば、育った環境もあれば、本人の努力もあれば、という、いわば総合格闘技というか。

 ではここから「生まれ持ってのもの」だけをうまく抽出するには一体どうしたらいいのだろう?

 

 だいたい三歳の頃から十二歳ぐらいまでピアノを習っていた。九年間。こう見ると短くない期間のように思えるけれど、今何か弾いてみろと言われてもおそらく殆ど何も弾けない。練習曲の一曲や二曲なら子どものように楽しく弾けるかもしれないが、その程度。九年間という時間には全く見合わない。どうも音感がないようだった。あと、ピアノを弾くとどんな楽しいことがあるのかよく分かっていなかった、というのもある。もう少し演奏の楽しさみたいなのをちゃんと理解できていたらなあ。子どもの頃の私に、ピアニストの情感的な演奏の映像とか見せたらすこしは理解してくれるかなあ。

 

 あと、音痴だった。

 そもそも一家全員音痴だ(家族のなかに、自分はそうではないという人がもしいたら申し訳ないけれど)。父親も母親も音痴で、弟も音痴だ。私もそうだ。そもそも中低音が上手く出ない。リズムが取れなくてだいたい少し遅い。音程がふらついている。ビブラートが出せたことはない。という感じで率直に下手なので、小さいころは機嫌よく歌っているだけでもよく家庭内クレームが来た。

 自分という人間にあまり向いていない領域・領分といったものがあるのだ、ということを、音楽は教えてくれた。同時に、それなりに努力を重ねれば、とりあえず自分なりに自分のなかで楽しめる程度にはうまくやれるようになるもんだ、ということも。歌はずっと下手だったけれど、ずーっと歌っていたら本当に少しずつ欠点が埋まってマシになってきた。今ではカラオケで気持ちよく歌うことができる。

 

 努力の仕方を教えてくれたのも歌だった。勉強のように「少しずつ知識量や解ける問題が確実に増えていく」というような成長の仕方ではなくて、絵や、歌は、愚直に練習して、楽しくやって、ダメだなあと思えるポイントを見つけて、それを克服して、一時期なんでもうまくできるようになった気がして、しかし暫くすると逆にとても下手になったかのような気分になって、そこをなんとか持ちこたえるとまた少し上手くなって、という風にして成長する。特に歌はこのサイクルが早かったので、「あ、下手に感じられるようになってきたな。また少し上手くなれる階段を上っているんだな」と実感できた。そういう風に自分のモチベーションを管理する方法みたいなものも教えてもらった気がする。

 音楽や歌に関しては、スタート地点があまりに低かったし、一回ごとに上れた分も小さな小さな段差だった。でも、こういう風に少しずつ上がっていけるんだ、という手ごたえを確かに教えてくれた。向いているとか向いていないとかじゃなくて、少しずつ、少しずつ、たしかに上がっていけるということ。

「下手の横好き」って良い言葉だよなあと思う。好きなものがあるのは良いことだ。下手でも好きなものがある、っていうのは特に良いことだ。わたしは実は、好きじゃないのに上手なものというのも一つ持っているんですが、いまだに愛着がわかない。その力は、必要そうになったときに道具みたいにして使っている。

 

 ところで今ふと思ったのですが、小説に関してはなかなかそのような階段や螺旋や波が見当たらない。書いた、書いてない、今日は書ける、書けない、というモチベーションの波はあるけど、実際の力量の波はあんまり自分では観測できない。多少はうまくなっているんだろうけれど、少なくとも三年前ぐらいまでの文章と今日の文章とは特に違いがないように思う。十年ぐらい前のものを読んでようやく、ちょっと下手かなと思う程度。日々上がっている感じもしない。めっぽう向いてないのかもしれないですね。それでも書くけど。