@particle30

惑星イオはどこにある

20220808

 

3日目:今日は映画を見た。

 

ピングドラム後編映画のチケットを取った。映画を見に行かねばならぬならぬと思いながらものびのびになっていたので、チケットをとっとと取った。席はすでにまばらに埋まっていたが、中ほどばかり埋まっており、実はそのシアターは後ろが一番見やすいと知っているわたしはしめしめと良席を確保した(このシアターは左右の中央もどこなのか分かりづらく、適当に番号の中央を取ると結構右に寄ってしまうというトラップもある)

 

17時頃のチケットが取れたので、昼はどこかに行きたいと思ったが、17時には池袋に戻っていなくてはならないのでそんなに遠出もできない。そういえば池袋ってミュージアムとかあるんだっけ、と検索したら、「ミュージアム」というより「ギャラリー」って感じの場所をいくつか見つけた。そのうち一つに足を運んでみることにした。

 

…………と、ここまで予定を決めたのはよかったが全然布団から出る気にならず、ごろごろしたままに漫画アプリで「薬屋のひとりごと」をチケット課金してまで読み進めてしまい、まあそれはそれで面白かったんだけど(ぜんぜんなろう系じゃなくてびっくりした。古の中華後宮もの+お仕事ものって感じ)、とにかく頑張って家を出るために化粧を始めた。

 

アイラインペンシルとアイブロウを間違えるというお茶目な化粧(一瞬顔が両津勘吉になった)が終わった後に服を選んでいたら、なかなかいい服の組み合わせを見つけてしまったりして、近所のギャラリー+映画館程度の外出じゃもったいないなこれと思って明日にまわすことにした。明日は日帰り小旅行に行こうとおもっているんです。

 

ちょっと散歩するもののそんなに歩き詰めでない一日になることが予想されていたので、初めて履くヒールの低いパンプスを選んで外に出た。ギャラリーは住宅街の中にあったので、色んな民家を眺めながら散歩しつつ向かうことができた。日本の民家がなぜか(見るのが)好きなんですが、一体なんなんだろうな。ひょっとしたら建築物とか実は好きなのかもしれない。

 

ギャラリーは残念ながら肌に合わなかった。ギャラリー+本屋ということだったのでまあ最悪本でも見ればいいだろうと思っていたんだけど、半分以上外国語の本だったり(どれほどおしゃれでも読めない本は買わない主義)、選書もピンとくるものがなく、ギャラリーの絵は美しくはあったが趣味に合うわけでもなく、そそくさと出てきてしまった。まあでも個人がやっているギャラリーなんて、ぴったんこカンカンに好み直球で「わたしのためにあるかのような場所!」と舞い上がれるか、なんとなくオシャレな空気だけ味わって帰ってくるか、今回のようにウーンという鳴き声だけ残してくるか、の三択のような気がしていて、まあ、満足度にブレがあるのはしょうがないんだと思う。人によって好きだったり好きじゃなかったりするものだからこそ、小さいギャラリーがたくさんあるような文化っていいですよね。

 

途中で適当に純喫茶に入り、本を読み、時間に慌てたりしながら、次は映画館へ。映画館のCMって年々長くなっているような気がするんだけれど、どうしてなんだろう。ところで次シーズンの映画の予告をやってくれるのはもちろん嬉しいものの、今やってる映画の予告をやるのとかってだめなんでしょうか。予告をたくさん見ると映画を見たくはなるんだけれど、どれも数カ月~1年先の映画だったりするのでその熱をすぐ発散できないんだよなあ。

 

映画は文句なしにすばらしかった。ちょっと疲れてたので途中眠かったけど、いや、結構消化感のある映画だったけど、でも大好きなアニメの総集編の映画ってそんなものじゃないですか。ちょっと足された新要素に喜んだり、初見の時に感動を思い出したり、その頃自分が好きだったもののこととか思い出しながら見ました。とても良かったですし、今後もピングドラムは大切な作品であり続けることかと思います。

 

 

その後、ポケモンセンターモンスターボールを3つ買いに行った。今度シーパラポケモンコラボに行くので。みんなでボール持って写真取れたらいいなあと思って……。ポケセンへ向かっている道中、そういえば何時までやってるんだっけ? って検索したら閉店10分前であることが分かり、履き慣れないパンプスで走りました。どのボールにしようかな~なんて迷う間もなく三つ抱えてレジに並んだら、お姉さんに「お目当ての子がいましたか?」って聞かれてはじめてそのボールの中にポケモンのぬいぐるみがブラインド式で入っているらしいことを知る。「ええ、まあ……」って適当に答えたら「どの子が欲しいんですか?」って聞かれ、まあ適当にピカチュウ(なら入ってるだろ)って答えようかと思いつつ一応タグをちらっと見たら全然ピカチュウいなかった。あぶなかったです。ヒバニーって答えたら、優しいお姉さんはヒバニーが出るようにお祈りまでしてくれました。ありがとうございます。ぼくもなんだかヒバニーが欲しくなってきました。

 

帰ってからはちょっとユナイトして、……あれその後何してたんだっけ!? ってiPhoneのスクリーンタイムで調べてみたらはてなブックマークを読んでいたらしい。どうせ大した情報なんてないのに読んでしまう。あとは夜寝る前にすこし仕事確認しました。

 

明日は諸橋美術館(福島のダリ美術館)に行きたいと思っていて、所要時間とか行き方とかを調べていたら個人の人のブログにいくつか辿り着いた。なんか、「その人が好きなもの」についてつらつら書かれた個人のブログってすごいいいなあと思ったりした。

 

リンクフリーなのかどうか全然知らんけどいくつか勝手にリンクを貼ってこのブログを終わりにしたいと思います。

 

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dali.world

 

ドメインからしてダリ大好きなことが伝わってくる。ダリの顔がめちゃくちゃ良いこととか、書いてある内容がとても共感できる。以下はとても好きな一文です。

子供に「ダリ」と名前をつけようとしたら、誰にも賛成してもらえなかったためやめました。とめてくれてありがとう。

 

xayataka.hatenablog.com

 

「誰かの役に立ちそうだと思ったことを自由に書くブログです」の通り、旅行ネタや靴の直し方やちょっと悪質そうな不動産屋への対抗方法など、ほんとうに様々なことが書かれていたブログ。美術展のブログ中心にいろいろ読ませていただきました。

 

 

 

blog.kyanny.me

 

そんなこんなで個人ブログを結構読んだ後にこの記事をホットエントリで見かけて読んだ。わかる。TwitterFacebookも好きだけど、Web日記としかいいようがないこういう文章も大好き。はてなブログの読者機能とかもうちょっと使ってみると、いっぱいいい書き手に出会えるかもしれないな。

 

 

 

 

とかとかやっていたら眠くなってきたので眠ります。二日連続で小説書いてないけど、まあいいか。おやすみなさい。

 

 

 

20220807

 

2日目:科博に行ったのと、おうちでオンラインリアル脱出ゲームをやりました。

 

あさ10時頃に起きて布団のなかで芋虫さながらもぞもぞTwitterで時間を殺していたら、「who are we」という国立科学博物館の特別展示を見つけた。

 

 

かわいい。

 

剥製が好き。いつか暖炉のあるリビングを家に作ることができたら、暖炉の上に羊か鹿かの剥製を飾りたいと思っている。鳥の剥製もいつか欲しい。「ひきだしを開き締めする」という仕掛けも面白そうだなあと思って出かけてみた。ついでに特別展の「化石発掘ハンター」も見にいった。恐竜を好きそうな子供たちが親御さんときゃっきゃと化石の模型を見ていた。

 

「化石発掘ハンター」のほうは、人類の起源がはたしてアフリカにあるのかアジアにあるのか……みたいな、今までの人生で一度も考えたことがないような疑問がテーマとして取り上げられていた。考えるまでもなくかってにアフリカの猿が人間になってそこから歩いて地球中に広がっていたものだとばかり思っておりました。

 

ところでもしアフリカが人類の起源で、そこから離れるにしたがって人間の顔付きとかが少しずつ変化していったのだとすると、現在アフリカ系の人がヨーロッパで暮らした時に何千世代か過ぎると今のヨーロッパの人々に似た顔つきや肌色になるのだろうか、それとも、はたして? みたいなことは考えたことがあった。そもそも起源がアフリカなのかどうかというところで争っているものだとは思ってもみなかった。

 

「化石発掘ハンター」展は特別展示ではあったが、あまり研究者の説の理由や学説の移り変わりとかの詳細がいまいち書かれていなくて、化石の小ネタみたいなものがちょこちょこ書かれているような感じだった。化石や剥製や標本がどーんと置いてあるし、通路は広いし文字も大きいので、あんまり化石に興味がなくてもとりあえず快適に見れる感じでまあよかったともいえる。

 

常設のほうに移動して、「who are we」展へ。こちらは常設の一部屋がこじんまりとした特別展になっているもの。おしゃれな剥製たちと、その横に置かれた巨大な直方体。直方体にはよく見るとでっぱりがあって、それを引き出すと動物の生態や骨格だったり進化に関連した知識がシンプルに説明されている。「ひきだしたあとは必ず閉じてくださいね」と入場時に言われたものの、どうせ一人ひとり開け閉めするなら(感染対策という観点でも)開けっ放しのほうがいいんじゃないの、とか思っちゃってたんだけど、実際ひきだしをあけるときのわくわく感は結構上質な感覚で、後ろの人のためにちゃんと閉めようって気分になった。博物館って、自分の中にある好奇心を再発見するために行くようなところでもあって、そういう意味ではこの展示のように自分の好奇心を「行動」で可視化させてくれる取り組みはすごくいいと思った。

 

国立科学博物館には何度も来ていたので常設展はそんなに見なくてもいいかな、夏休みで人多いし、と思いつつも一応日本館をちょっとだけ回る。とっくに見たと思っていたはずの展示だったんだけどなんか記憶がなくて、もしかしたらわたしは日本館を初めてまわったのかもしれない。いつかもうちょっとゆっくり見回ってみたいものです。

 

上野でパエリアを食べて、家に帰ったあとはオンラインリアル脱出ゲームをやった。オンラインなのかリアル(≒オフライン)なのかどっちなんだよ、って感じの名前だけど、「リアル脱出ゲーム」の「オンライン版」ですよ、という意味合いの名付けらしい。

 

今回は「封鎖された人狼村からの脱出」というのをやった。

(今他のゲーム一覧もまとめてみて知ったけど、「封鎖された人狼村からの脱出リメイク」というのもあったらしい。どうやらキャストが豪華になったようだ)

 

realdgame.jp

 

謎はシンプルで簡単なんだけど、動画を見ながら進める形式で、長いものだと20分ぐらいする動画もあったりするので結構長く遊べた。謎が結構簡単めなので友達と通話繋いでやるぐらいが楽しいかもしれない。個人的には、小さい謎いろいろ解くだけじゃなくて最終問題の応用性が結構好きだったりもしているので、そのへんの捻りがもっともっとたくさんある作品だったらよかったのになあという感じ。でも面白かったです。

 

 

そこから一回だけユナイトして、その後ほんとうは小説を書いたり絵を描いたりせねばと思っていたんですがやらずにいま深夜2時を迎えました。なにをしているんだ。小説だけでも書いてからねようかな、ここ最近、眠くてもあんまり気持ち悪い感じがしない(ただただねむいな~って頭がぼーっとするだけ)になってきて、長く起きるのが楽になってきました。楽というのかな、苦痛はともなわない感じというか。

 

明日は美術館に行くか、本を読み終えるか、まあとかくも出かけたいなあとは思っています。映画見に行くのもいいかなあ。

 

 

 

20220806

 

1日目:毎日ブログでも書きます。

 

今日からしばらく夏休みなので、なにか毎日ひとつずつでも有意義なことができればいいなと思っています。そういう決断をしたことがある人自体って多いと思うんですが、実際にやりおおせたことがある人ってどのぐらいいますか? わたしは自分自身が成し遂げた経験があるのかないのかすらよく分からず、でも成功体験があったらきっと覚えていそうな気もするので、まあたぶん、ないんでしょうね。

 

 

です・ますだと書くのがたいへんなので、ここで、だ・であるに変更します。

 

 

昨日、「メルロ=ポンティ入門」という本を読んだ。職場近くの図書館で借りたその本は、昨日が貸し出し期限日だった。読み終えるまで帰らないぞと強い思いでオフィス下の硬いベンチに座ったが、あまりの硬さにニ十分もしないうちに尻が悲鳴をあげ、これならオフィスのボックス席でこっそり読書でもしておくんだったと後悔した。とはいえお腹もすいていたしオフィスに戻るのもなんだなあと思ったので、冷たいベンチとおさらばして喫茶店に入りトーストをほおばりながら半分ほど残った本の続きにとりかかったが、なにせ哲学の入門書なのでねむくて仕方ない。でも前々から読み終えるぞと決めていた本なので、残り三割というところでギブアップするのももったいない気がして、睡魔と闘いながら本を読んだ。なんだか瞬間的、短期的には辛いことをしているような感じに見えてはしまうんだけれど、一応読書をするのは好きだ。めちゃくちゃ眠いと思いながらなんとか読み終えた本を返却ポストに入れた時には充実感があったが、なにせ眠かったので本の内容は正直なところ3分の1も理解できていなかった。

 

哲学書に関しては、ちくま新書のことをかなり信じている。哲学者ひとりひとりの性格まで表現された、親しみやすく分かりやすい入門書をちくま新書は結構たくさん出してくれている気がしていて、レーベル全体に対するぼんやりとした信頼感がある。メルロ=ポンティのことについては正直まったく理解が深まらなかったが、本のなかで出てきた著者本人の人生のエピソードはかなり心に残っていた。エッセイ風に書かれた文章もこなれていて、この人のブログがあったら是非読みたいと思い、著者名で検索した。御年七十歳だった。さすがにブログはないかなあと思って検索したら、HTMLで作られたウェブサイトを発見した。「HTMLで作られた」って、いやそれ当たり前じゃんって話かもしれないけど、本当に手で手作りでタグ打ちしたって感じのサイトだったんです。日記コーナーのようなものもあったけど、それも本ブログみたいなありもののサービスを使ったものじゃなくて、手作りだった。ブログは元々「ウェブログ」の略なんだけど、その日記もまさにウェブ上に残された記録って感じで、手作りのホームページ文化を思い出して懐かしくなったりした。

「主要業績」の欄は5年前の日付で止まっていて、多分65歳で定年退職したんだろうな、という感じがした。ガンになったり、本を出したり、色んなことがあったらしい。著者の他の本を見ると、闘病の際の思いを込めたであろう「死の哲学」に関する本もあった。よりエッセイ的な趣がありそうだと思って是非読みたくなった。

 

 

……とある作品を読んだときに、その作者に好意が向かってしまうということ。小説等だとよくあることのような気もするけれど、哲学者にとって「著者への好意」はどのような受け止められ方をするのだろう。

 

この書き手さん好きだな、と思える人が何人かいる。その人たちは小説家でもエッセイストでもなくて、だから「作品」として文章を世に出しているわけではない。でもその人の書く文章があまりに心地良くて、より「その人らしさ」が見えるような題材を選んだ文章は他にないだろうか、と調べてしまう。本編とは違う部分について興味をもたれているということになるのだから、やはり不本意かもしれない。

 

「小説家」ではないが好きな書き手、といえば一番最初にあがるのは翻訳家の金原瑞人で、彼の訳したサマセット・モームの「月と六ペンス」を初めて読んだ時、サマセット・モームが天才であることは明らかだが、その天才性をここまで日本語に美しく写像してみせた翻訳家に宿った才能のほうもいかほどのものだろうと、グーグル検索でモームの名前よりも先に「金原瑞人」と検索した。今まで意識していなかっただけで、わたしの好きな作品をいくつも訳している人だった。

 

幸運にも金原瑞人はブログを頻繁に更新しているしエッセイ本も出している。たまにネット講義もやってくれるし、イベントにも登壇するから直接話を聞ける機会もある。わたしが翻訳に関する小説を書き始めたのと彼に興味を持ったのとどちらが早かったかもう覚えていないんだけれど、「翻訳」という行為がどういうものなのか、「言葉」というものがどういうものなのか、そういうことについて考えを深めるのに、彼の書いた文章たちは本当に役に立った。役に立った、とかいうと偉そうですが。大変面白く読ませていただきました。

 

金原瑞人はどこかの大学の教員なので、公開授業とかの機会がないかとたまにウェブサイトを見たりしている。大学の公開講義って行ってみると初心者向けにいろいろ楽しく教えてくれて結構スナック教養的な楽しみがあり、コロナ前はたまに出かけていた。大学にそういう「公開授業」という取り組みがあると知ったのはコロナ直前1年前ぐらいで、登壇者を頼まれたからだった。正規の先生がやらないと意味ないんじゃないの、と思ったりもしたが、「広く地域の皆様に、大学の活動や学習に興味をもってもらい、生涯学習の手助けをすること」が目的であるということなので、必ずしも大学の先生がそのままいつもと同じ授業をするのが大事ってわけじゃない、ということらしい。どんな人が来るのか分からずひやひやしたりしたんだけど、みんな新しいことを学ぶのが好きって感じの方々で面白かった。もうちょっと早く知っていたら、色んな授業に行けたかもなあと思ったりもするんだけど、Zoom参加のものも結構あるので全国どの大学の公開授業聞けるって思うと今のほうがいいのかも。

 

話が逸れに逸れた。最近は聞き流しでYoutubeの哲学や心理学や歴史などの文系コンテンツを聞きながら眠ったりしている。あとは法務系の資格の勉強もしたりとか。結局知識を詰め込んだりテストの問題を解いたりするのが好きだってことなんだろう。資格試験は面白いから、また他にも探してみたい。

 

学生の頃は理系の教科ばかり大好きで、文系に進む道なんて見えてもいなかったけど、実は全教科のなかで一番安定して成績がよかったのは国語だったんだよなあ。漢字の書き取りは苦手でしたが、あんなの3問ぐらいしか出ないし。

 

 

好きなものが増えていくのは楽しい。あ、こんなことにも興味あったんだ、って自分のなかにある意外なものを発見したりするようなこと。あと、ただ楽しいことももちろん好きだけど、資格勉強したり何かを考えたり難しいことを理解しようとしたり、そういうちょっとした苦みも楽しめるようになってきたというか。小説や絵や歌が教えてくれたことかもしれない。試行錯誤して苦しんでやってるんだけど、まあ、続けていくし、別にいやいややっているわけではないし、面白いよ、ってこと。

 

 

 

 

こういう、読みづらくて楽しくなくてただ自分の感情と記録だけをとどめておくような文章ってどうなんでしょうね。瞬間的な喜びや悲しみとかは別の媒体でスナップショットみたいに記録しているからこそ、ここではこういう冗長でコンテンツ性のない記事が増えてしまっているような気がしてる。でも、五年後のわたしとか、十年後のわたしは、多分このブログを読んで喜ぶと思う。昔の自分がどんなことを考えていたのかって、未来の自分からしたら結構面白いことだったりするから。

 

 

というわけで、夏休み1日目でした。今日やったことは全然書いていなかった気がするけど、ジュラシックワールドを見たり、「ポケモンの神話学」を読んだり、ユナイトしたりしてました。ハンバーグを食べました。映画館はワンピースの映画公開初日でかなり混んでいた。これから小説を書く。

 

 

20220308

自死に関する話が含まれています。

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 2022年3月8日、久しぶりに声をあげて泣いた。子供みたいに泣きじゃくった。

 

 時は遡って、去年の私の誕生日のこと、敬愛していた歌手・声優が死んだ。朝起きてすぐ、旅館のふかふかの布団のなかで、時間を確認するだけのつもりでスマートフォンの通知画面を一目見て、私は彼女が死んだことを知った。とても信じられなかったので、逃避のためにもう一度眠った。再び目を覚ました時、すぐにスマートフォンを開く気にはなれなかった。本当だと分かり切っていることをもう一度自分に刻み込みたくはなかった。努めて冷静でいようとしたし、誕生日ということで色々予定もあったので、その日のわたしに出来うる限りの穏やかさをもって一日を過ごした。帰りのロマンスカーの中で、おめでとうのメッセージを一通り読み終えて、友人がわたしのために作ってくれた誕生日専用のウェブサイトのメッセージ欄も一通り読み終えた頃、急激な寂しさに襲われた。

 

 その日のわたしには、二つの不幸があった。ひとつ目はその日の朝彼女が死んだこと、ふたつ目はその前々日に友人がガンの診断を受けていたことだった。死がなんだか突然わたしの周囲を覆い出してきたような感覚に襲われた。だがわたしは生きているし、そもそもガンの友人だって死なない。ガンになっただけだ。治療は必要だし、数カ月仕事を休まなければならないらしいが、すぐ差し迫って一年以内に死ぬとかそういうことではない。でも、わたしも友人と一緒に勝手に疲れていた。とにかく酷い心労があったけれど、このどちらの話についても旅行の同行人である恋人には伝えていなかった。

 

「実はさあ」とわたしはロマンスカーの赤い座席に埋もれながら言った。「友達がガンになってしまったんだ」

 

 一緒に悲しんでほしかったんだろうか、どうして言ってしまったのか分からなかったけど、ある程度消化してから言うべきことだという感覚はあった。恋人は、ガンのステージは何なんだとか、どのガンなんだとか、どこで治療を受けるつもりなのかとか、そういうことを一通り質問してきた。わたしは途中、心のなかで苦笑いした。まさに友人が言っていたのだ、「みんな、一番最初にステージを聞いてくる」と。その言葉を聞いた時点でわたしは友人にステージを尋ねていなかったし、それ以後も(「みんなに聞かれる」と言われてしまってはなおさらに)聞けなかった。

 

 結局、その日の朝に死んだ彼女のことについては話題にもあげなかった。ある程度消化してから言うべきことだという感覚が、またしてもあったし、そもそも「死」という不可逆の現象の話をするには(病だってある種不可逆ではあるかもしれないが、それでもここに違いを見出してしまう)、わたしののほうの覚悟がどうも足りない気がした。誰とも哀しみを分かち合いたくなかった。少なくとも、彼女のことをふかく愛している人以外に彼女の話をしたくなかった。今わたしがどんな気持ちになっているのか、誰にも知られたくなかった。わたしはわたしの心の心配をされるのが嫌だった。

 

 あれから数カ月が経った。友人のガンの治療のほうはひと段落した。わたしが、死んだ歌手のファンであり彼女を大変好ましく思っていることは、周囲には伝えていなかったので、誰からも心配のメッセージなど届かなかった。でも、もし知られていたらいくつか届いただろうと思う。これにはかなり助かった。「自分にとって大切なもの」は、大切である分、他者に開示などしないほうがよいのではないか、とそんなふうに思い始めていた。真に哀しんでいるとき、他人とその悲しみを分かちあいたいと思えない。誰とも慰め合いたくない。だから、「この小説が好き」とか「この絵が好き」とかは言っていいけれど、「この人が好き」だとは(その人が今この世界に生きているのなら)、言ってはならない。なんていうか、これはわたしの持つ弱みだから。

 

 そんなことを考えながら暮らしているうちに、2022年3月8日が来た。それまで、Youtubeで死んだ歌手の歌を聞いたり、お芝居の動画をもう一度見たりすることもあったけれど、概ね彼女の情報には(とくに、死後に発せられた「彼女に関する情報」には)積極的には接することなく過ごしてきた。でもその日の作業中、とあるラジオを聞いていたら、パーソナリティーが、「実はね、映画の***を今さら見たんですよ」と言い始めた。死んだ歌手・声優の、出世作といっていい作品だった。「とても面白かった」と言いながら、パーソナリティーは次のラジオナンバーに自身の曲「Life is good」を掛けた。パーソナリティーと死んだ歌手の二人の間にはそれなりに親交があり、「姉妹のような」という言葉を使ってお互いの関係性を説明しているのをインタビュー等で何度か見たことがあった。

 

"Life is good" の 歌詞のなかで、一番すきなところを抜粋する。

 

The world is ours
No one could ever take it from us

You know life is good
We got each other
And that's all we need

 

 ほんとにバカみたいだと思いながら、「Life is good」を聞いて泣きじゃくった。本当に人生って素晴らしいだろうか、わたしはそれを友人らに保証することができるだろうか。これから生まれてくる命に向かってそう語り掛けることができるだろうか。希望と約束ばかりを追い求めて、「that's all we need」(これで欲しいものは全部手に入れた)って歌うことができるだろうか。いや、毎日そうすることはできないだろう。でもそういうふうに世界を信じられる日は生きていればいつかある。すぐに過ぎ去って、また暗黒の夜が来るかもしれないけれど、「素晴らしい日」は永遠に来ないわけじゃない。わたしにだってあった。穏やかで幸福な夜があった。でもだからなんだっていうんだろう、「Life is good」って言えるだろうか? 言いたいけれど、ほんとうにわたしはそういうふうに言えるだろうか。でも言いたかった。

 

 あんなに寒い日に死んでしまったあなたのことが、やはり辛くて辛くてなりません。

 


 *

 

 

 読者のことだけを考えるなら、こんなに長い文章を書く必要はほんとうはなかった。
坂本真綾が、ラジオで『実は初めてアナ雪見た。ほんとに面白いね』って言った直後に『Life is good』流してて号泣しちゃった」ってTwitterで言えばいいだけだった。適当にみんなわたしの気持ちを想像してくれただろう。一文で済ませたほうが、より多くの人に、より正しく、わたしの感情を伝えることができたような気がする。ただ、その一文だけでは、わたしの覚悟や感情やかけた時間に見合わなかった。それだけで済ませた場合、自分がものすごく身勝手に感情を消化しているだけのような気がしてしまって、自分で自分を受け入れられなくなるような気がした。

 

 というわけで。

 ほんとうは一文だけでいいところを、長々と書いて、あなたに読んでもらいたいと思いました。

 今日はここまでにしておきます。自分に起きたことを、自分にとって固有のままで、とにかく書くことができるわたしであり続けられますように。

 

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某所に置いていた文章を引っ張り出してきました。

2021年に読んだ本の話

 

ぼくはまだ2020年ぐらいの気持ちなんですが……。

 

 

(ちなみに2020年に読んだ本の話はこちら)

 

meeparticle.hatenablog.com

 

 

今年の分も書いていこうと思います。

「おすすめ本まとめ」じゃなくて「読んだ本の話」なので、もうちょっとこういうことも書いてあればよかった~的な感想も含みます。

 

 

1.クララとお日さま

honto.jp

日光浴が大好きなAIのお話。AIにつきがちな設定――たとえば、感情の波が高くない、体温がない、どこか冷静……のような要素たち、つまりこの「血が通っていないかんじ」も、「日光浴が好き」という設定が付くだけで、「動物ではなくて植物寄り」の生命に思えてくるからあらふしぎ。動物のように肉をまとっていないやさしい生きもの。クララの視点を取ることで、人間が、最後にはどこか冷たい生き物のように見えてくる。読了直後は「うん、いい文章で、いい小説だったね」という程度の感想だったのですが、日を追うごとに、じんわりと良さが広がってきて、一年経った今ではかなり大好きな小説です。映画化が本当に楽しみ。

 

「わたしを離さないで」と同様、SF的モチーフを持ち出してくるのに、そのモチーフにありがちな特徴やクリシェがあんまり発動しないために、独自の世界観がしっかり出来上がっている感じ、ほんとうに好きです。

 

 

2. 子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所から

エッセイ本。めちゃくちゃ良かった。最初の書き出しの部分を読むだけでもこの本の良さがわかると思うのでよかったら試し読みしてみてください。

honto.jp

 

どんな人にもおすすめしたい一冊。

村上春樹の「卵と壁」のスピーチが好きなんだけど、まさにこの本も徹底的に「卵」側についている。複雑でどろどろしていて割り切れない、でもそこに確実にあるリアル。実際に起こっていること、手触りを知っている人でないと思考することのできない問題があるということ。

あと、日本の幼稚園ってものすごく保育士の数が少ないらしい(イギリスに比べると)。

 

 

3. ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2

 

↑の「子どもたちの階級闘争」と同じ著者のエッセイ。こちらは息子さんとのエピソードが多めになっている。

1巻目はエッセイ大賞を取っていてかなり人気のシリーズ。2巻目もとてもよかったことは覚えているが、なにがよかったのか、1年経ったいまでは全然覚えていない。また読み返そうとおもいます…………

 

 

4.ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと

honto.jp

仕事に一切のやる気が出なくなっちゃったとある夕方のこと、早めに退勤してKindleでこれを買ってベッドで寝転びながら読み始めた。二時間後ぼろ泣き。

耳の聞こえない母親が周囲に笑われるのが嫌で、母親を守らなくてはいけないと思う息子が母親の代わりにあれやこれやをやってあげたりするんだけど……というようなエピソード詰まったエッセイ本。母親を守るつもりで自由を取り上げてしまうということ。

 

 

5.産声のない天使たち

honto.jp

生きたまま産まれてくることのできなかった赤ちゃんたちに関するルポ本。

病院によっては、生まれてくる前にお腹のなかで死んでいることが分かっても無痛出産に切り替えられなかったり、他の母親と同じ分娩室で同じように痛い出産をしなければならず、さらにすこし以前までは子どもを抱くこともできない病院もあったんだとか。

自分があんまり想像力のない人間だという自覚があって、こういうルポ本を読まないと世界にあるはずのいろんな感情や体験を見逃してしまいそうだな、という気がしています(命に関わる話は、直接当人から聞けるような話でもないし、もし聞く機会があっても冷静に受け止められないと思うから、テキストという形で世に出してもらえるありがたさを感じます)

 

 

6.すいません、ほぼ日の経営。

honto.jp

2年ぐらい前の誕生日にもらっていた本。

糸石重里、やっぱり言葉を使うのがほんとにうまい人。「うちは他の会社とは違う、特別」って意識が前にガンガン出ていてちょっと胸焼けしそうなぐらいでしたが、まぁでも社長ってそんなものなのかも。読みやすい本でした。

 

 

7.猫を棄てる 父親について語るとき(村上春樹

村上春樹のエッセイ本、とくに旅エッセイ本とかは結構好きでよく読んでいる。

親、という存在。人生の序盤を埋め尽くし、人ひとりの形成に大きく影響を与える存在であるにも関わらず、実際の影響力よりもその存在感はぼんやりとしていてどこか曖昧な気がする。思い出そうとしないと思い出せない、というか。

村上春樹の世代の人は、父親が戦時中に人を殺したことがあったのかどうかをずっと気にし続けていなければならなかったんだなあ……。そういえば私の母方のおじいちゃんは人を殺したことがないと言ってたけど、父方の方はそういえばどうだったのかなあ、とかぼんやり思ったりしていた。

 

 

8.脳から見るミュージアム アートは人を耕す

honto.jp

対談本。話が「美術館の運営は公共の長期的利益を生む(文化を耕している)」に終始していたが、もうちょっとつっこんだことも知りたかった。そりゃ公共の長期的利益のために美術館も図書館もあるでしょうけれど、そんな建前的一文は分かり切っているわけで、本であるからにはもう少し説得力ある実例が欲しかったというか……(ただただ「とにかく利益があるはず」というだけの主張に見えてしまってよくなく)

文章は読みやすくさらさら読めるので、とりあえず一冊本を読みたいときにはちょうどいい。というかまさに、2時間暇になった時間があったので適当に新書買って読んだ感じでした。

 

 

9.90分でわかるキルケゴール

なんか読みづらくて、たぶん90分以上かかった。

全体的な文章のテイストが好みに合わなかった。著者と合わなかったのか訳者と合わなかったのかどちらなのかはわからない。実際に喋ると面白いおじさんの、ブログの文章だけ読んでる感じ。本来なら質問して補えるところの不足が目立つというか。教科書的でもないし、かといって入門書というわけでもないような、ターゲットのよくわからない本だった。この著者自身のファンなら読みたがるような気もするが……シリーズこれだけ出てるってことは有名な人なのかしら。表紙のデザインは好きです。他シリーズを買うことはおそらくないと思う。

こういう入門本は、やっぱり「おすすめ!!」って強く誰かに推されているものを買うのがよさそう……。

 

 

10. よくわかる思考実験

 

内容自体はWikipediaで十分だろうという程度の薄さだが、まとまっているということに価値を感じる人は買ってもいいのかも。「思考実験」というものに強い興味はないがしかしそれについて知識を得なくてはならなくなった……というぐらいの人にオススメかもしれない。「思考実験」というワードをすでに知っていて、それが好きな人はもうすでに知っているラインナップだと思います。特に解説が厚いわけでもない。

 

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オススメ度としては、小説なら「クララとお日さま」、エッセイなら「子どもたちの階級闘争」が一番です。

2021年は、あんまり小説を読まなかった一年だったかもしれません。今年はもうちょっと乱読気味に色々読めるといいなあ。

 

 

 

さて、いつも通り、2021年時点でのベストテン(2021年に読んだ本だけに限らず、「今まで読んだ本」すべてのなかで)を書いておこうと思います。去年読んだ本からのランクインはなかった。残念。

 

1.「魔性の子

2.「わたしを離さないで」

3.「エズミに捧ぐ(ナインストーリーズ)」

4.「ライ麦畑でつかまえて

5.「パズルランドのアリス」

6.「孤島の鬼」

7.「ゴーストハントシリーズ」

8.「去年を待ちながら」

9.「死に至る病

10.「ひらいて(綿矢りさ)」

 

 

今年もいい本に出会えますように。

 

たられば

 

即興小説でもやろうかなと思ったんだけど、だれかと話がしたい気分だったのでここにきた。いや、実際にだれかと話をしろよ。と、自分でも自分に対してそう思う。

 

amazarashiの「たられば」という曲のメロディラインがとてもすきで、お風呂でたまに歌っている。「もしもぼくが天才だったなら」という歌い出しで始まるとても美しい歌だ。ボーカルが「もしもぼくが天才だったなら」と歌ったあと、4拍ほど声の乗らない空白がある。もう喋るのをやめちゃったのかな、なんて思っていると「たったひとつだけ名作をつくる」と続く。それでそれで? と相槌を打つための4拍がまたあって、彼は静かな声で「死ぬまで遊べる金を手に入れて」と続ける。どうするんだろうなあと待っていたら、4拍のあとに、「それこそ死ぬまで遊んで暮らす」と彼は言う。

 

会話ができそうなテンポで、相槌をゆるす間隔で、そっと置かれている歌詞たちがとてもすき。4拍の間に彼と同じメロディで追いかけて歌うこともできるから、親鳥のうしろをついていくみたいにわたしも同じ言葉を歌う。「もしもぼくが天才だったなら」「たったひとつだけ名作をつくる」「死ぬまで遊べる金を手に入れて」「それこそ死ぬまで遊んで暮らす」。

 

でもこの曲の一番すばらしいところはサビ。「あなたのねむったかお みていたら こんなぼくも わるくはないなっておもえたんだ」って歌うところ。ここだけは4拍の溜めがないから、一緒にうたう。わたしはこの曲が、この言葉たちが、伝えようとしていることがよくわかる。迷いも憂いも戸惑いも妬みも苦しみも、ぜんぶをやわらげてくれるものがあって、それを愛だと呼んでいます。ということ。

 

サビ以外ですきなのは、「もしも僕が話し上手だったら 深夜ラジオのパーソナリティーになる どこかの誰かの辛い一日を 笑顔で終わらせる人になる」というところ。わたしがもしも、わたしが持ちうる感性や言葉や思考のすべてを、きちんとまあるくあなたに伝えることができたなら、わたしもそういう人になりたい。

 

なんで書きたいんでしたっけ、とおもうことがある。もう手垢のついたばかりの”命題”で、永遠に答えが出ることもなさそうだし、そう面白い問題でもないんだから、さっさと手放してしまったほうがいいのに、でもやっぱり考えてしまう。なんで書きたいんでしたっけ。「書きたいもんは書きたいんだから仕方ないじゃん」って思うときもある、「書きたいと思う気持ちから書き始めているんだから、その時々でなぜ書くのかという理由は異なっているのだ」と思うこともある、「わたしはことばのために、心のために、思考のために、書かねばならないのだ」と考えることもあるし、あなたがくれたことばをただただ思い返している夜もあります。もしもわたしがことばを使うのがもう少し、もうちょっとだけでも上手かったなら、どこかのだれかの、というかあなたの、どうしようもないまっくらな闇の隣で、一緒に闇のまま座り込んでいたかった。だれにもできないことを、やりとげてしまう「ことば」がたぶんあると思います。無力なときもありますが、意外とそうでもないときだってあります。「もしもぼくが天才だったなら」。

 

 

 

 

 

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「モクシロク」Z版について

 

夜北硝水さんの日記集「モクシロク」についての詳細が公開されました。

 

 

 

日記集「モクシロク」は、X版/Y版/Z版の3つのバージョンを持つ書籍です。
掲載されている記事内容に変更はありませんが、装丁や編者や掲載順や体裁等のすべてが版によって異なっております。

このうち、わたしは、Z版の装丁・編集・前書きを担当させていただきました。*1

 

 

しょーさんご自身は各種作業が大変手早い方ですが、わたしのほうは全てにおいてゆっくりやる方ですので、この本についても2か月以上の納期をお願いして作業に取り組みました。しょーさんだけで出されるならもう何か月か早く世に出るはずだった本の足を引っ張ったわけですので、せっかくですから、このような記事で編集内容の振り返りなどを行わせていただければと思います。

 

 

Z版について

Z版では、わたしによる「前書き」、「年表」、「逆引き集」を付けております。

また、本文も、算用数字・漢数字の編集やルビ振り・用語解説等で手を入れております。

 

編集について

 

「色々読みやすくしました。」

もし、わたしがこの本の著者(編者ではなく)であり、編集方針を聞かれる機会があったなら、ただ一言そう答えたと思います。自分が書いたものを自分で編集するということは、どこか制作の続きを行っているようでもあり、出し忘れた宿題を回収しているようでもあり……。本をつくるたびに言っていることでもありますが、書いているときの自分とそれを改めて見直しているときの自分と最後に本になった時に読む自分とは、三人ともまったく別の人間であって、しばしばこの間で喧嘩が起こることもあります。

 

しかし、今回は原稿をいただいてから二カ月間、わたしは「編者」としての自分に徹することができました。

 

編集について、わたしがこんな編集されたらほんとに嫌だろうな、と思うようなことをいくつかやっています。例えば硝水さんがルビを振るのをお好きでないことなんて百も承知ですし、硝水さんからしたら「年表」も「脚注」も、蛇足・無用の長物・明らかに過度な補足であって、日記中に書いていることをあらためて解説されるのなんてちょっと気まずい感じもあるでしょう。

 

しかし今回は「完成するまでお互い見せあわないこと」という縛り条件を逆手に取って、原稿をお渡しするときに、今回はこのように変更してしまいましたので、と笑って押し通すことにしようと決めました。著者のこだわりがあるかもしれない部分についても、一度は思いを馳せつつ、しかし必要だと判断したときにはためらわず編集をかけました。漢数字と算用数字の変換や、全角半角の調整、また掲載順の決定等のことです。個人的には、自分で編集するとしたらあそこまであからさまに類似の記事を並べることはできないような気がしております。とにかく、日記のなかに書いてあることを「読者」がくみ取りやすいように――それだけを意識して編集しました。

 

とはいえ、こんなに色々とあからさまですとやはりお嫌なんじゃないか、と思ったりもしたので、一応前書きにて言い訳を言ってから始める構成にしました。

 

注釈と年表について

 

日記というのは、その日あったことやその日感じたことを書く場所ですので、どうしたって時事性が伴います。むしろ、そのリアルタイム感が心地よいメディアだとすら思います。

しかしあれらの記事を書籍という形に落とし込む以上、何年か後にこの本を開く人も、わたしの想定する「読者」に含めるべきだろうと思いました。そしてその方に、2020年という年の異様さを思い出してもらえるよう、あるいは知ってもらえるよう、年表や注釈を付けました。(ただ、年表については、あまりに悲惨なことをたくさん書いてもしょうがないよなあ、という感覚もあり……。別に2020年という年の異様さを残すための本というわけでもありませんから、あくまでも「読者」が置いてきぼりの気持ちを持たないよう、寂しく思わないよう、それだけを願ってこの年表を付けました)

 

2020年――久しぶりに会った人や、長らく連絡を取っていなかった人に、去年、一番した最初の挨拶はなんだったでしょうか。わたしは、途中から気を付けていたにも関わらず、結局のところすこし場がしーんとすると、これを聞いておけばまあ大丈夫だろうというような手軽さに負けて、結局あの災厄の話を持ち出してしまっていた気がします。最近どこかへ行った? とか、そういう定番の質問がしづらくなったということもありますが。

2020年は新型コロナウイルスによる影響に浸濡れになった年でしたが、でも、それだけの年というわけではありません。世界をとりまく大災厄が起こっていたこと自体はどうしようもない事実ですが、それはそれとしても、人間の一日一日の生活(ご飯を食べて仕事をしてお風呂にはいって睡眠をとって)は結局大枠変わらずに続いていたりもしていて、悲しいこともしんどいこともみんなあったと思いますが、それだけの年ではなかったということ。

「年表」を付記することで、そうした色を付けすぎてしまわないよう、巻末付録に留めるというところと、あまりに悲惨すぎることばかり列挙しないというところを気を付けました。

 

前書きについて

 

実は、最初はもうちょっと違う舵切をしていたのですが、途中で、やはりこの本の最大の特徴である「著者ではない者による編集」という部分をもう少しフィーチャーして整理しなおすべきかなと思い直して書き直しました。

 

Z版「前書き」については、しょーさんのツイートにて少しだけお読みいただけますので、よかったら。

 

 

最初はお気に入りの記事のことや、硝水さんのブログを読み始めた時のエピソードなどを書いておりました。それはそれで面白かったですし、他人が寄せる「前書き」としてなかなか価値のあるものであるようにも思いました。しかし改めてこの本のコンセプトに立ち返ったときに、いや、もっとこの本にとって、導き手となれるような文章を書くべきだ、と思い直しました。

 

 

 

 

だからやはりこの本は一つの献身の結果です。

 

わたしにとって、「小説を書くこと」「文章を書くこと」はいろんな理由や背景や目的を伴う行為です。でも、「本を作ること」は、いつも誰かへの献身のつもりでおりました。たとえ自分のために書いた自分のための小説だったとしても、それを本にするときには、この本を手に取ってくれる人、読んでくれる人、そしてこの本自身のために、なにかを捧げて全てを手伝うような気持ちで、いつもいます。

 

 

 

他人の日記記事を編集するという、なかなかない機会に恵まれ、稀なる栄光に浴することができたこと、心から嬉しく思います。

いつも通りの祈りで終わります。すこしでも楽しんでいただけますように!

 

 

 

 

 

showsui.booth.pm

 

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*1:こちらで募集されていたのを拝見しお声かけしました。
https://twitter.com/garasssu/status/1372385016097828865