@particle30

惑星イオはどこにある

夢にも思わない

宮部みゆき「夢にも思わない」のネタバレがあります。

夢にも思わない (角川文庫)

夢にも思わない (角川文庫)

 

 



その少女は私よりも数段、可愛かった。

大きな瞳と、高すぎない鷲鼻を持ち、花が咲くようなぱっとした明るさがあった。たぶんクラスで一番可愛かったと思うし、今では会社で一番可愛いんだろう。声は魔法少女のように高くて、そして彼女はピアノが弾けて、詩才があった。

かえって私はというと、二歳のころから絶対音感の訓練を受け、父の希望でピアノを習っていたにも関わらず、いまとなってはバイエルすら怪しい。もちろん絶対音感はなく、カラオケでも90点を越えたことがない。詩才についてここで自己採点したくはないが、少なくとも彼女には及ばない。とうてい。

彼女はすべてを見通すような目をしていて、それが私は羨ましかった。
他人に愛されやすい性格、大人に可愛がられる愛嬌。

ただひとつ欠点があるとすれば、あまり成績がよくなかった。
たぶん、私が彼女に勝てる唯一のことは、学校という限られた場所において、テストというたかだか数日のごくごく短い期間、獲得できる点数が比較的高かった、ということだけだった。

しかしそんな欠点はすこしも彼女の魅力を損なわず、かえって男の子たちは喜んで彼女に勉強を教えた。

私は彼女を待ちながら、答え突き合せたいから見せてくれよ、と、テスト返却期間にしか話しかけてこないめがねの男の子と、本当に事務的にお互いの答案を見せ合う放課後を過ごした。ええ、ここ君も間違えたの? うん、たぶんひっかけだね。これじゃ答えがわかんないな。これから聞きにいくけど、一緒に行く? いや、いかない。友達待ってるから。

一時間ほどして、刺すような日光が少し和らいだころ、彼女はようやく解放されて、紺のスカートを揺らしながら、私の席へ来る。ねえ、つかまっちゃった、みんな聞いてもないのに方程式の解き方を教えてくれるの。しかもよくわかんない。待たせてごめんね。この宿題、一緒にやってくれるでしょう?

もちろん、とうなずいて私は彼女とモスバーガーに向かう。幸せな夏の日の思い出。ほんとうに幸せ。


さて、思い切って書いてしまおう。
私は、この人にはとうていかなわない、と思う相手を持ったことが、何度もある。
しかしそれは能力の一部分に限定した話であって、全体を通して総負けしたような気持ちを味わったことは一度もない。

この「味わう」というところはひとつのポイントで、たとえ目の前に私よりも成績がよくピアノが弾けて詩才があってそして可愛い、そのほかすべての項目も軽々と私を越える、そんな相手が現れたところで、私が彼女(もしくは彼)のことを「羨ましい」「負けた」とつよく思わない限りは、そういう敗北の感情にふかく浸からない限りは、人は負けたとはいえないのである。

逆に、どれほど項目上は勝っていたとしても、「負けた」と感じるなら人は負けるのだ。
私はあれから十年たったいまでも、彼女に負け続けている。

しかし、この人にはかなわない、と思える友人を持てる人は幸せだと思う。
甘い敗北の味を知っている人は幸せだ。勝ち続ける必要がない。

「友人」という存在は、日常の潤いだったり生活の支えだったり、遊び相手だったり思考をぶつけあわせる好敵手だったり、恋人とは違って、さまざまな役割を果たしてくれる。友人。親友。甘い響きだと思う。ゆるくてやわらかくて簡単で、恋人ほどの責任もなくて、そして固く結ばれた、幸せなつながり。


「夢にも思わない」は、そんな「かなわない友だち」を持つ男の子の物語だと、私は考える。


これは「ぼく」と島崎の話だ。
話の最初から最後まで、一人の少女が見え隠れするが、しかして決して恋愛小説ではない。
「ぼく」と島崎は、ふかい絆で結ばれていて、それは誰の目にも明らかだ。

「ぼく」は島崎に深い敗北感を抱いている。敗北感、というと大げさすぎるが、しかしそういうことだ。「とうていかなわない」という羨望に近いものを持っている。しかしその感情はあまりひねくれすぎてはいない。たぶん、「ぼく」は、けっこう島崎のことが好きなんだろう。そういう関係がこの世界にはある。負けている――たとえ他の誰がそうではないと言ったって、「ぼく」が負けていると思うなら、「ぼく」は負けているのだ。しかし、勝負したときにいつだって勝てるからという理由で相手を好きになることがないように、つねに負けてしまうようなとうていかなわない相手でも、あるいはだからこそ、深い親しみを抱くこともある。「ぼく」は島崎のことが好きだ。

おそらく島崎も「ぼく」が好きだ。そういう感触を持っていたからこそ、「ぼく」は島崎の隠し事にあれほど心を乱される。どうして、と唇をかむ。そして、島崎にはとうていかなわないとわかったうえで、それを何度も独白しながら、島崎を尾行し、彼の秘密をなんとか暴かんとする。

結局、島崎は「ぼく」のためにこそその秘密を抱え、闇に葬ろうとしていたことが、後半で明らかになる。
青春小説にはよくこういった構図がある。完全な人間とそうではない人間がいる。たいてい主人公は完全ではない凡人のほうで、二人は友人。主人公は、巧妙に、完全な人間に守られる。しかしとある拍子にその秘密がばれて、主人公は、何よりも大切な大親友のはずの友人を、こそこそ付け回らなくてはならなくなる。ほんとうに、あいつを出し抜くことなんて出来るんだろうか――と不安に思いながら。

そして結局、主人公は真実にたどり着く。真実によって、主人公は手ひどい傷を受けるが、それでも、そんな傷から守ろうと試みてくれた友人の愛情を知る。たいてい主人公は、怒る。どうして隠したんだ。一緒に考えさせてくれたらよかったのに。完璧な友人は謝る。そうして、主人公はもう一度思う。こいつにはかなわない――。

この固い関係は、シャーロック・ホームズジョン・ワトソンのようだ、と少しだけ思った。
ワトソンはホームズにはかなわない。周囲は、いやいや、ワトソン医師のほうが社会的な地位が高いですよと言うかもしれない。しかし他でもないワトソン自身が、負けていると思うなら、すでに負けているのだ。たとえ世界がなんといったって、二人の間ではそういうことになっている。

しかしそんな勝負事とは関係なしに、ワトソンはホームズが好きだし、ホームズもワトソンが好きだ。二人は分かちがたい。友情によって結ばれている。そして、ホームズは、何かしらの複雑な理由によってワトソンが知るべきではない秘密を発見してしまったら、それをワトソンに知られないまま秘密裏に処理しようとするだろう。そしてワトソンは、もしも何かの弾みでその秘密の存在を知ってしまったら、ホームズの秘密を自分が暴くことなんてできるだろうかと心配しながら、しかしやはり、「ぼく」と同じことをするだろう。島崎を尾行してなんとか真実を手に入れんとした、「ぼく」と同じように。

島崎は終盤、「ぼく」に弱りきった声を出す。なあ、どうしても知りたいのか。忘れてくれないのか。
「ぼく」は言う。すべてを教えてくれ。
島崎は結局すべてを吐露して、抱えていた荷物を降ろす。

これは友情の物語だ。愛情深い絆の話。

もし、「少女」が私にだまって、何かを処理しようとしていたら、私は考えうるすべての手段を用いて彼女の秘密を暴こうとしただろう。

そんなふうに強い執着をもてる相手がいることは、幸せなことだ。「また来年」。そんなふうに、大晦日に言い合える相手がいるのは、幸せなことだ。

夢にも思わない (角川文庫)

夢にも思わない (角川文庫)

 

 

外科室

※後半に泉鏡花の掌編小説「外科室」のネタバレがあります。青空文庫ですぐ読める模様。

 

泉鏡花 外科室




たったひとりの「きみ」を、あなたは持っているでしょうか。

中学のころ通っていた塾は、高校受験に必要ない知識まで存分に教えてくれるふしぎなところだった。ある日塾長は「君が代」の歌詞の意味を知っているか、と私に尋ねた。彼女はきれいな人だったので、私はちゃんと顔をあげて、知りません、と答えた。でもさざれ石は見たことがあります。

そう、と先生は黒板に向き直って、君が代の歌詞を、比較的大きな文字で書いて見せた。チョークの粉が舞った。

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで

すでに知っている歌詞を改めて黒板に書かれてみたところで分かるわけはないが、昔からなんとなく答えを待つのが嫌いな子どもだったので、あてずっぽうも含めて私は適当な解釈を講じた。いいんだ、適当でも、たまには当たることだってあるのだし。

「たぶん、天皇の治世が、千年も八千年も続きますように、という意味じゃないでしょうか。さざれ石は少しずつ大きくなる石なので、その石が苔で覆われるぐらい遠いときの向こうまで、という……」言っているうちに少し自信が出てきて、あたかも私は歌詞の意味を知っているような気持ちになれた。先生は私のそんな性質を良く知っていて、わらった。「千年、じゃなくて、千代、だけどね。まあ、それ以外はだいたいあたり」と彼女は言った。

でも、と先生は続ける。

「『天皇』なんて実はどこにもかかれてないのよ」
「じゃあ、千代って、誰の? 神さまですか?」
「日本語はね、なにも示さずに『きみ』というときは、かならず愛しいひとのことなの」

不思議に思って、もう一度歌詞を見た。千代に八千代に。きみの代が続きますように。永遠に。こけのむすまで。

「恋愛の歌なの。日本の国家は恋の歌。愛しい君の世界が、ずっとずっと続きますように。こけのむすまで。ねえ、素敵でしょう」

ほんとですか、と私は笑った。実際、この解釈を先生以外の人から聞いたことがないので、嘘かもしれない。しかし一度機会のあったときに、古文が専門だという詩人の教授にきいたところ、たしかに君が代の「君」は誰なのかという議論はある、と教えていただいた。「しかし恋人のことではない気がするよ」「ですよね、ありがとうございます」

まあ、国歌のことは、実はどうだっていいんですが、この、「きみ」というときは、かならず愛しいひとのこと、という美しい一文が、私の耳からしばらく離れなかった。

たまに、女性ばかりの気心知れた集会で、私がする質問がある。「ねえ、どうしようもなく好きなひとっている? 恋人のことじゃなくて。この人からもし連絡がきたら、もうかなわないってひと。勝てなさすぎて、遠ざけておかなければならないような、そんな人」。いる、と答える女性が何人かいた。たまに、そういう存在がほんとうに恋人そのものだという、奇特な人もいるにはいる。

「きみ」。それは二人称の存在で、つまりは極端にいえば、本当は「わたし」と「きみ」しか世界にはいらないのにね、という盲目的な感情のこと。恋と呼ぶにも奇妙で、愛と呼ぶにもおかしくて、なんというか、一方的に「わたしの半身」だと思っているような相手のこと。出会えたら僥倖だけど必然のようで、偶然でも不幸せで、これ以上ない喜びなのにせつない。あなたが違う存在として生まれてきたことがせつない。ほんとうは一緒に生まれるべきだった。そんなふうに錯覚したくなる、ふしぎな存在。「きみ」。

分かちがたい存在。自分の半身。運命の人。赤い糸の繋がる相手。

本当にそんな相手に出会えたなら、たぶん一目で分かる。下手すれば同じ空気を吸っただけでも分かる。すれ違っただけでも分かる。魔法みたいに、超能力者みたいに、直感や感覚や、とにかく科学や医学では割り切れないなにものかによって、宇宙の導きで、ともかくも分かる。

「外科室」はそれだけの作品だった。とある男と女とがすれ違う。ふたりはお互いの、名前も身分も出生も、内面も性格も本質も知らないまま、深い深い執念を得る。お互いに、たった一目見ただけの人を愛する。どっぷりと。

少しミステリ要素があるにはあるが、これは結局のところ恋愛小説でもある。「上」と「下」に分けたことで少し謎が生まれてはいるものの、おおむねあっさりとした短編小説だと思う。初読ではいまいち分からなくて、私は二回読んだ。二回目は少し胸の表面にひびわれが出来るように痛んだ。たった一目見ただけで二人は恋に落ちて、二人以外にはとうてい分からない瞬間を得る。お互いに、お互いの愛情を知らないまますごし、本当に最後の最期に、愛情が溶解する。不思議な話だ。


そう、塾、そういえば最初は反対されていた。私たちが教えるから塾なんて行かなくていいでしょ、という父母の言葉を尻目に、無理を言って通った価値は十分にあった。もともと塾に行きたかったのは、友人が通っていたからだった。あのころから私は「友人」という存在にめっぽう弱かった。たった一人の友だちを見つけたいとかたく思っていた。とある女の子が私にささやいた言葉がある。「ねえ、こんなにおんなじことを考えているひとって初めて。あなたもそうでしょう?」

「きみ」。二人称の存在。私が恋の話を書くとき、結局相手は必ず一人だ。どんな恋愛小説を読むときも、基本、ページの向こうに透けて見えるのは、必ず一人だ。そういう北極星のような不思議な人が、人生には存在する。

 

泉鏡花 外科室

外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)

外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)

 

 

コンビニ人間

えっ、きみ芥川賞なんて読むんだ。とかれは言った。

 

読みますよ。毎回じゃないですけど。直木より芥川が好きです。へえそうなの、意外だなあ。直木賞すら好きじゃないかと思ってた。どういうことですか、むしろどんな本を読むと思ってたんです? って私が聞けば、かれは「いや、だって君アニメとかも好きそうだからさ」と苦笑いした。べつに揶揄されているわけでも馬鹿にされているわけでもないのだな、と、きっかけなしに勝手に理解した私はとりあえず微笑みを返して、かれに本を掲げてみせる。「まあ、これ再読なんで二回目なんですけどね」

 

私が読んでいたのは「コンビニ人間」だった。文藝春秋の紙面でいちど読んだけれど、単行本も購入した。いっしょに原っぱへ昼寝をしにいった男の子が、カバーをはずした黄色い単行本を抱えてアイスティーをすすっている姿をみて、とってもうらやましくなったのだ。本を買うとき、文章を買うのではなく、インテリアを買うような気持ちになることがしばしばある。

 

男の子はまだその本の36P目までしか読んでいなくて、わたしに向けて「これ、読んだ?」と聞いた。読んだよ。読んだ。すごく良かった。だろうね、と男の子は笑った。だろうね。これは君こそが読むべき本だっていう感じがする。たまにあるよね、読む人を激しく選ぶ本。その対象者にたとえ含まれていなかったとしても、おれはそういう本を読むのが好きだ。へえ、そう? 日差しのつよい午後のこと。南国そだちの私たちはへっちゃらだったけれど、道行くひとはみんなポケモンGOのアプリを光らせ走りながら、滝のような汗を流していた。私はピカチュウとコイルを一匹ずつつかまえて満足して、本の世界に入り浸った。でも、黄色い単行本をうらやむ気持ちが記憶に強く残りすぎて、あのとき自分が何を読んでいたのか思い出せない。

 

読むべき人を選ぶ本。たしかにそういう本はある。読むべき『時期』を選ぶ本、というのもある。特に思春期にはそう。思春期でないと、満点で楽しめない本というのはどうしたってあると思う。私にもあった。ああ、これはこの年齢で読めておいて本当によかった、とつよく思うこと。あとから思い返して、ああ、大人になった今ではあんな読み方は出来ないわ、なんて大人ぶるようなこと。

 

コンビニ人間」はひょっとすると、「ひと」と「時期」と両方選ぶような本かもしれない。

もっと、自意識のしっかりしていない、ぷるぷるのわらびもちのようだった無形なころの私が読めば、より心動かされたのかも。自意識。アイデンティティ。自分ははたしてまともな「大人」になれるのだろうかと不思議な疑念にとらわれるような時期のこと。でも、大人にしか分からないこともたくさん書かれている。だからたぶん、思春期に一度、仕事を始めたころに一度、そして三十六歳になってからもう一度読むと、余すところなく楽しめる。

 

とても読みやすくてぐんぐん引き込まれる文体。柔和に読ませるのに、ページをめくっていると突然小さな通り魔に遭う。私の心をちいさく切り裂いてゆく不思議な感覚。主人公の女性は「普通」がなにか分からない。「普通」になりたい、と思うわけでもないのに、周囲の家族たちが心配するので、「普通」を目指そうと思っている。マニュアルどおりにすべてを行う。しかし彼女はすでに三十六歳で、コンビニのアルバイトで、そして結婚していない。彼女は妹に言う。「私、教えてくれればその通りにやるよ」

 

私は過去に、これはとても反省しているのですが、口論の中で、こう言ったことがある。なんて返してほしいんだ。私がどう返事したら君は満足して、この論争を終わらせてくれるんだ。言ってみてくれ。言ってくれたらその通りに返してやる。「君」は怒った。というより悲嘆して、どうしてそんなことしか言えないんだ、話し合いしているところだろう! と叫んだ。その悲痛さ。私の心臓のなかで大きく燃え上がっていた炎は一瞬にして鎮火されて、波が襲った。申し訳ないと思った。その後どういう結論になったか、いやそもそも何をテーマにあんなに争っていたのか、もうあんまり覚えていないけど、あの不思議な怒りの静まりだけはわすれない。

 

話が逸れたが、「コンビニ人間」はホラー小説のような、涼しい気配を持つ作品だと思う。恐ろしさがある。眉をひそめたい嫌悪感がある。「そんなに面白いなら読んでみようかな」とかれは言った。あなたは本なんて興味ないと思ってました。いやあ、昔はよく読んだんだけど、最近さっぱりだね。それ、「コンビニ人間」、面白い?

 

私は少しだけ考えて、いや、あなたには向いていないかもしれません、と答えた。

 

自分はひょっとして、おかしな人間で、二度と水面へは浮かび上がれないのではないか。ボタンを掛け違えたような、周囲のひとと別のゲームをやっているような、摩訶不思議なずれ。そんなこと、思ったことないでしょう?

 

ないな、とかれは言った。ないと言い切れる人のほうがごく少数だと思う。たいていの人は、自分という人間にたいして、ひそやかなる不安を抱いたことがあると思う。「ない」と言い切れる人のための文章は、小説は、どこにあるのだろう。でも、少なくとも「コンビニ人間」はそういう人のための小説ではない。誰もがもつありふれた疎外感、もしかしてもう戻れないのではないかという根拠のない不安、そしてありていに言ってしまえば、自分は他のものと違っていて――そして違いすぎていて、だからあの輪に入れないのだと思う、そういう特別視の気持ちに、よく似ている感傷。

 

主人公の女性は、ほんとうに最後まで「普通」になれなかった。だからなんとなく、思春期のころの続きを思い出して、胸が苦しくなるのだと思う。あのころの自分がそのまま大きくなったような存在が、本のなかにいる気がして。

 

短くて苦しくて黄色が鮮やかで、夏に原っぱで読むのにいい本です。

 

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間