@particle30

惑星イオはどこにある

コンビニ人間

えっ、きみ芥川賞なんて読むんだ。とかれは言った。

 

読みますよ。毎回じゃないですけど。直木より芥川が好きです。へえそうなの、意外だなあ。直木賞すら好きじゃないかと思ってた。どういうことですか、むしろどんな本を読むと思ってたんです? って私が聞けば、かれは「いや、だって君アニメとかも好きそうだからさ」と苦笑いした。べつに揶揄されているわけでも馬鹿にされているわけでもないのだな、と、きっかけなしに勝手に理解した私はとりあえず微笑みを返して、かれに本を掲げてみせる。「まあ、これ再読なんで二回目なんですけどね」

 

私が読んでいたのは「コンビニ人間」だった。文藝春秋の紙面でいちど読んだけれど、単行本も購入した。いっしょに原っぱへ昼寝をしにいった男の子が、カバーをはずした黄色い単行本を抱えてアイスティーをすすっている姿をみて、とってもうらやましくなったのだ。本を買うとき、文章を買うのではなく、インテリアを買うような気持ちになることがしばしばある。

 

男の子はまだその本の36P目までしか読んでいなくて、わたしに向けて「これ、読んだ?」と聞いた。読んだよ。読んだ。すごく良かった。だろうね、と男の子は笑った。だろうね。これは君こそが読むべき本だっていう感じがする。たまにあるよね、読む人を激しく選ぶ本。その対象者にたとえ含まれていなかったとしても、おれはそういう本を読むのが好きだ。へえ、そう? 日差しのつよい午後のこと。南国そだちの私たちはへっちゃらだったけれど、道行くひとはみんなポケモンGOのアプリを光らせ走りながら、滝のような汗を流していた。私はピカチュウとコイルを一匹ずつつかまえて満足して、本の世界に入り浸った。でも、黄色い単行本をうらやむ気持ちが記憶に強く残りすぎて、あのとき自分が何を読んでいたのか思い出せない。

 

読むべき人を選ぶ本。たしかにそういう本はある。読むべき『時期』を選ぶ本、というのもある。特に思春期にはそう。思春期でないと、満点で楽しめない本というのはどうしたってあると思う。私にもあった。ああ、これはこの年齢で読めておいて本当によかった、とつよく思うこと。あとから思い返して、ああ、大人になった今ではあんな読み方は出来ないわ、なんて大人ぶるようなこと。

 

コンビニ人間」はひょっとすると、「ひと」と「時期」と両方選ぶような本かもしれない。

もっと、自意識のしっかりしていない、ぷるぷるのわらびもちのようだった無形なころの私が読めば、より心動かされたのかも。自意識。アイデンティティ。自分ははたしてまともな「大人」になれるのだろうかと不思議な疑念にとらわれるような時期のこと。でも、大人にしか分からないこともたくさん書かれている。だからたぶん、思春期に一度、仕事を始めたころに一度、そして三十六歳になってからもう一度読むと、余すところなく楽しめる。

 

とても読みやすくてぐんぐん引き込まれる文体。柔和に読ませるのに、ページをめくっていると突然小さな通り魔に遭う。私の心をちいさく切り裂いてゆく不思議な感覚。主人公の女性は「普通」がなにか分からない。「普通」になりたい、と思うわけでもないのに、周囲の家族たちが心配するので、「普通」を目指そうと思っている。マニュアルどおりにすべてを行う。しかし彼女はすでに三十六歳で、コンビニのアルバイトで、そして結婚していない。彼女は妹に言う。「私、教えてくれればその通りにやるよ」

 

私は過去に、これはとても反省しているのですが、口論の中で、こう言ったことがある。なんて返してほしいんだ。私がどう返事したら君は満足して、この論争を終わらせてくれるんだ。言ってみてくれ。言ってくれたらその通りに返してやる。「君」は怒った。というより悲嘆して、どうしてそんなことしか言えないんだ、話し合いしているところだろう! と叫んだ。その悲痛さ。私の心臓のなかで大きく燃え上がっていた炎は一瞬にして鎮火されて、波が襲った。申し訳ないと思った。その後どういう結論になったか、いやそもそも何をテーマにあんなに争っていたのか、もうあんまり覚えていないけど、あの不思議な怒りの静まりだけはわすれない。

 

話が逸れたが、「コンビニ人間」はホラー小説のような、涼しい気配を持つ作品だと思う。恐ろしさがある。眉をひそめたい嫌悪感がある。「そんなに面白いなら読んでみようかな」とかれは言った。あなたは本なんて興味ないと思ってました。いやあ、昔はよく読んだんだけど、最近さっぱりだね。それ、「コンビニ人間」、面白い?

 

私は少しだけ考えて、いや、あなたには向いていないかもしれません、と答えた。

 

自分はひょっとして、おかしな人間で、二度と水面へは浮かび上がれないのではないか。ボタンを掛け違えたような、周囲のひとと別のゲームをやっているような、摩訶不思議なずれ。そんなこと、思ったことないでしょう?

 

ないな、とかれは言った。ないと言い切れる人のほうがごく少数だと思う。たいていの人は、自分という人間にたいして、ひそやかなる不安を抱いたことがあると思う。「ない」と言い切れる人のための文章は、小説は、どこにあるのだろう。でも、少なくとも「コンビニ人間」はそういう人のための小説ではない。誰もがもつありふれた疎外感、もしかしてもう戻れないのではないかという根拠のない不安、そしてありていに言ってしまえば、自分は他のものと違っていて――そして違いすぎていて、だからあの輪に入れないのだと思う、そういう特別視の気持ちに、よく似ている感傷。

 

主人公の女性は、ほんとうに最後まで「普通」になれなかった。だからなんとなく、思春期のころの続きを思い出して、胸が苦しくなるのだと思う。あのころの自分がそのまま大きくなったような存在が、本のなかにいる気がして。

 

短くて苦しくて黄色が鮮やかで、夏に原っぱで読むのにいい本です。

 

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間