@particle30

惑星イオはどこにある

小説の「あとがき」を読むのがすきだ。また、技術書の「はじめに」を読むのがすきだ。本質的にはおなじことが書いてあるからかもしれない。どちらも、本を読む読者に向けて、あるいは読み終えた読者に向けて、祈りや願いをささげている。じぶんの本を売るとき、すこしでも楽しんで頂けますように、とおもいながら梱包することが多い。わざわざカードにそう書いて送ることもある。楽しんでほしいという願いは、わたしにとって、紙の書籍に対してのみ生まれる感情のような気がする。ただネット上にアップしてあるだけの作品は、誰かが読んでくれたらいいな、と思ってあげている。通読されたらいい、誰かが最後まで読んでくれたらうれしい、もし途中でやめてしまったとしても、一文字でも多く読み進めてもらえたらいいなと思う。途中までしか読めなかったが面白かった、という感想だってあるのだと知っている。(まあ、作者に伝えるのはなかなか勇気がいる「感想」だと思うので、こういうメッセージが届くことは実際にはありませんが)

 

物語を書いている最中は、ただ書いている行為が楽しい。そう思えないときには基本的に書いていない。文章を書くのはなかなか楽しい。いい文章を書こうとしたり、うまい文章を書こうとしたりするからこそ、面倒になったり嫌気がさしたりするが、そもそも思っていることを書く、文章にする、この行為はただただ楽しいだけのものだ。終わらせなければならないという自分自身の叱責の声がおよばなければなおのことそうだ。だから、これらの文章は「書く」ことは少なくとも面白いことだと証明されている。しかし「読む」のに適しているのかどうかというのは自分でもよく分からない。直後に読み返し、なんと読むのに適さない文体だろうと思うこともある。そうやって、時間をおいて何度か読んで、文章を「読む」に値するものに変化させることを「推敲」と呼んできた。これは、単に文章のクオリティをあげている、という改善の試みではなくて、なにかしらの翻訳や転換に近いのではないか、という気が最近している。つまり、「書く」文章としてはそもそもいいものを書いているのだ、そうでないと書けないから。それを「読む」文章にわたしたちは変換しなければならない。「書く」のに気持ちいい文章と「読む」のに気持ちいい文章とがあり、これらの間にはゆるやかな相関があるが、しかし一意ではないから、ここに少しの加工が必要になる。そういうふうに考えると、推敲は反省の機会ではなくて、むしろ新しいものを生み出す行為だ、と思う。だから修正するような気持ちで上書きしてはならないのかもしれない。もう一度同じ文章を「書く」機会に恵まれたときを想定して、元の文章は元の文章で、「書く」ために残しておかなければならないのかもしれない。

 

三年前に「標本」という本を作った。短編集だ。そこそこ評判がいい(気がする)。文章のリズムを褒めていただくことが多い。収録作はPCでタイプして書いた。だから手書きにおいては「書く」ことをしていないのだが、先日「標本」を読んでくださった方が全文手書きで写経してくださった。わたしは「書く」ことをしていないのに、読んでくださった方が「書く」ことをしてくださった、ある意味世界で初めてそれらの文章は「書く」ことを”成された”わけで、読むだけではなく、書かれたり、掘られたり、刻まれたり、いろんな使い方をしてもらえたら嬉しい。というような気がするけど、まあ、「読む」のがいっとう楽でしょうね。新作「十三月のうた」も、すこしでも楽しんでいただけますように。

 

 

 

2020/06/04