@particle30

惑星イオはどこにある

外科室

※後半に泉鏡花の掌編小説「外科室」のネタバレがあります。青空文庫ですぐ読める模様。

 

泉鏡花 外科室




たったひとりの「きみ」を、あなたは持っているでしょうか。

中学のころ通っていた塾は、高校受験に必要ない知識まで存分に教えてくれるふしぎなところだった。ある日塾長は「君が代」の歌詞の意味を知っているか、と私に尋ねた。彼女はきれいな人だったので、私はちゃんと顔をあげて、知りません、と答えた。でもさざれ石は見たことがあります。

そう、と先生は黒板に向き直って、君が代の歌詞を、比較的大きな文字で書いて見せた。チョークの粉が舞った。

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで

すでに知っている歌詞を改めて黒板に書かれてみたところで分かるわけはないが、昔からなんとなく答えを待つのが嫌いな子どもだったので、あてずっぽうも含めて私は適当な解釈を講じた。いいんだ、適当でも、たまには当たることだってあるのだし。

「たぶん、天皇の治世が、千年も八千年も続きますように、という意味じゃないでしょうか。さざれ石は少しずつ大きくなる石なので、その石が苔で覆われるぐらい遠いときの向こうまで、という……」言っているうちに少し自信が出てきて、あたかも私は歌詞の意味を知っているような気持ちになれた。先生は私のそんな性質を良く知っていて、わらった。「千年、じゃなくて、千代、だけどね。まあ、それ以外はだいたいあたり」と彼女は言った。

でも、と先生は続ける。

「『天皇』なんて実はどこにもかかれてないのよ」
「じゃあ、千代って、誰の? 神さまですか?」
「日本語はね、なにも示さずに『きみ』というときは、かならず愛しいひとのことなの」

不思議に思って、もう一度歌詞を見た。千代に八千代に。きみの代が続きますように。永遠に。こけのむすまで。

「恋愛の歌なの。日本の国家は恋の歌。愛しい君の世界が、ずっとずっと続きますように。こけのむすまで。ねえ、素敵でしょう」

ほんとですか、と私は笑った。実際、この解釈を先生以外の人から聞いたことがないので、嘘かもしれない。しかし一度機会のあったときに、古文が専門だという詩人の教授にきいたところ、たしかに君が代の「君」は誰なのかという議論はある、と教えていただいた。「しかし恋人のことではない気がするよ」「ですよね、ありがとうございます」

まあ、国歌のことは、実はどうだっていいんですが、この、「きみ」というときは、かならず愛しいひとのこと、という美しい一文が、私の耳からしばらく離れなかった。

たまに、女性ばかりの気心知れた集会で、私がする質問がある。「ねえ、どうしようもなく好きなひとっている? 恋人のことじゃなくて。この人からもし連絡がきたら、もうかなわないってひと。勝てなさすぎて、遠ざけておかなければならないような、そんな人」。いる、と答える女性が何人かいた。たまに、そういう存在がほんとうに恋人そのものだという、奇特な人もいるにはいる。

「きみ」。それは二人称の存在で、つまりは極端にいえば、本当は「わたし」と「きみ」しか世界にはいらないのにね、という盲目的な感情のこと。恋と呼ぶにも奇妙で、愛と呼ぶにもおかしくて、なんというか、一方的に「わたしの半身」だと思っているような相手のこと。出会えたら僥倖だけど必然のようで、偶然でも不幸せで、これ以上ない喜びなのにせつない。あなたが違う存在として生まれてきたことがせつない。ほんとうは一緒に生まれるべきだった。そんなふうに錯覚したくなる、ふしぎな存在。「きみ」。

分かちがたい存在。自分の半身。運命の人。赤い糸の繋がる相手。

本当にそんな相手に出会えたなら、たぶん一目で分かる。下手すれば同じ空気を吸っただけでも分かる。すれ違っただけでも分かる。魔法みたいに、超能力者みたいに、直感や感覚や、とにかく科学や医学では割り切れないなにものかによって、宇宙の導きで、ともかくも分かる。

「外科室」はそれだけの作品だった。とある男と女とがすれ違う。ふたりはお互いの、名前も身分も出生も、内面も性格も本質も知らないまま、深い深い執念を得る。お互いに、たった一目見ただけの人を愛する。どっぷりと。

少しミステリ要素があるにはあるが、これは結局のところ恋愛小説でもある。「上」と「下」に分けたことで少し謎が生まれてはいるものの、おおむねあっさりとした短編小説だと思う。初読ではいまいち分からなくて、私は二回読んだ。二回目は少し胸の表面にひびわれが出来るように痛んだ。たった一目見ただけで二人は恋に落ちて、二人以外にはとうてい分からない瞬間を得る。お互いに、お互いの愛情を知らないまますごし、本当に最後の最期に、愛情が溶解する。不思議な話だ。


そう、塾、そういえば最初は反対されていた。私たちが教えるから塾なんて行かなくていいでしょ、という父母の言葉を尻目に、無理を言って通った価値は十分にあった。もともと塾に行きたかったのは、友人が通っていたからだった。あのころから私は「友人」という存在にめっぽう弱かった。たった一人の友だちを見つけたいとかたく思っていた。とある女の子が私にささやいた言葉がある。「ねえ、こんなにおんなじことを考えているひとって初めて。あなたもそうでしょう?」

「きみ」。二人称の存在。私が恋の話を書くとき、結局相手は必ず一人だ。どんな恋愛小説を読むときも、基本、ページの向こうに透けて見えるのは、必ず一人だ。そういう北極星のような不思議な人が、人生には存在する。

 

泉鏡花 外科室

外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)

外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)

 

 

コンビニ人間

えっ、きみ芥川賞なんて読むんだ。とかれは言った。

 

読みますよ。毎回じゃないですけど。直木より芥川が好きです。へえそうなの、意外だなあ。直木賞すら好きじゃないかと思ってた。どういうことですか、むしろどんな本を読むと思ってたんです? って私が聞けば、かれは「いや、だって君アニメとかも好きそうだからさ」と苦笑いした。べつに揶揄されているわけでも馬鹿にされているわけでもないのだな、と、きっかけなしに勝手に理解した私はとりあえず微笑みを返して、かれに本を掲げてみせる。「まあ、これ再読なんで二回目なんですけどね」

 

私が読んでいたのは「コンビニ人間」だった。文藝春秋の紙面でいちど読んだけれど、単行本も購入した。いっしょに原っぱへ昼寝をしにいった男の子が、カバーをはずした黄色い単行本を抱えてアイスティーをすすっている姿をみて、とってもうらやましくなったのだ。本を買うとき、文章を買うのではなく、インテリアを買うような気持ちになることがしばしばある。

 

男の子はまだその本の36P目までしか読んでいなくて、わたしに向けて「これ、読んだ?」と聞いた。読んだよ。読んだ。すごく良かった。だろうね、と男の子は笑った。だろうね。これは君こそが読むべき本だっていう感じがする。たまにあるよね、読む人を激しく選ぶ本。その対象者にたとえ含まれていなかったとしても、おれはそういう本を読むのが好きだ。へえ、そう? 日差しのつよい午後のこと。南国そだちの私たちはへっちゃらだったけれど、道行くひとはみんなポケモンGOのアプリを光らせ走りながら、滝のような汗を流していた。私はピカチュウとコイルを一匹ずつつかまえて満足して、本の世界に入り浸った。でも、黄色い単行本をうらやむ気持ちが記憶に強く残りすぎて、あのとき自分が何を読んでいたのか思い出せない。

 

読むべき人を選ぶ本。たしかにそういう本はある。読むべき『時期』を選ぶ本、というのもある。特に思春期にはそう。思春期でないと、満点で楽しめない本というのはどうしたってあると思う。私にもあった。ああ、これはこの年齢で読めておいて本当によかった、とつよく思うこと。あとから思い返して、ああ、大人になった今ではあんな読み方は出来ないわ、なんて大人ぶるようなこと。

 

コンビニ人間」はひょっとすると、「ひと」と「時期」と両方選ぶような本かもしれない。

もっと、自意識のしっかりしていない、ぷるぷるのわらびもちのようだった無形なころの私が読めば、より心動かされたのかも。自意識。アイデンティティ。自分ははたしてまともな「大人」になれるのだろうかと不思議な疑念にとらわれるような時期のこと。でも、大人にしか分からないこともたくさん書かれている。だからたぶん、思春期に一度、仕事を始めたころに一度、そして三十六歳になってからもう一度読むと、余すところなく楽しめる。

 

とても読みやすくてぐんぐん引き込まれる文体。柔和に読ませるのに、ページをめくっていると突然小さな通り魔に遭う。私の心をちいさく切り裂いてゆく不思議な感覚。主人公の女性は「普通」がなにか分からない。「普通」になりたい、と思うわけでもないのに、周囲の家族たちが心配するので、「普通」を目指そうと思っている。マニュアルどおりにすべてを行う。しかし彼女はすでに三十六歳で、コンビニのアルバイトで、そして結婚していない。彼女は妹に言う。「私、教えてくれればその通りにやるよ」

 

私は過去に、これはとても反省しているのですが、口論の中で、こう言ったことがある。なんて返してほしいんだ。私がどう返事したら君は満足して、この論争を終わらせてくれるんだ。言ってみてくれ。言ってくれたらその通りに返してやる。「君」は怒った。というより悲嘆して、どうしてそんなことしか言えないんだ、話し合いしているところだろう! と叫んだ。その悲痛さ。私の心臓のなかで大きく燃え上がっていた炎は一瞬にして鎮火されて、波が襲った。申し訳ないと思った。その後どういう結論になったか、いやそもそも何をテーマにあんなに争っていたのか、もうあんまり覚えていないけど、あの不思議な怒りの静まりだけはわすれない。

 

話が逸れたが、「コンビニ人間」はホラー小説のような、涼しい気配を持つ作品だと思う。恐ろしさがある。眉をひそめたい嫌悪感がある。「そんなに面白いなら読んでみようかな」とかれは言った。あなたは本なんて興味ないと思ってました。いやあ、昔はよく読んだんだけど、最近さっぱりだね。それ、「コンビニ人間」、面白い?

 

私は少しだけ考えて、いや、あなたには向いていないかもしれません、と答えた。

 

自分はひょっとして、おかしな人間で、二度と水面へは浮かび上がれないのではないか。ボタンを掛け違えたような、周囲のひとと別のゲームをやっているような、摩訶不思議なずれ。そんなこと、思ったことないでしょう?

 

ないな、とかれは言った。ないと言い切れる人のほうがごく少数だと思う。たいていの人は、自分という人間にたいして、ひそやかなる不安を抱いたことがあると思う。「ない」と言い切れる人のための文章は、小説は、どこにあるのだろう。でも、少なくとも「コンビニ人間」はそういう人のための小説ではない。誰もがもつありふれた疎外感、もしかしてもう戻れないのではないかという根拠のない不安、そしてありていに言ってしまえば、自分は他のものと違っていて――そして違いすぎていて、だからあの輪に入れないのだと思う、そういう特別視の気持ちに、よく似ている感傷。

 

主人公の女性は、ほんとうに最後まで「普通」になれなかった。だからなんとなく、思春期のころの続きを思い出して、胸が苦しくなるのだと思う。あのころの自分がそのまま大きくなったような存在が、本のなかにいる気がして。

 

短くて苦しくて黄色が鮮やかで、夏に原っぱで読むのにいい本です。

 

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間