@particle30

惑星イオはどこにある

小説が書けない話

 

 

なんども言葉を重ねていることだから、いい加減自分のほうでも飽きてきてしまったのだけれど、”小説が書けない“。

 


今までは、それを公の場で口にしてしまうことがなんとなく怖くて、ひそひそと独り言のようにみなされる場所でしかこの弱音を吐いてこなかった。pplogという独り言ブログ(スナップチャットのようにすぐに記事が消える)とか、手帳や日記のなかとか、友人に宛てたアナログの手紙とか、ほとんどグレーに包まれたやさしく曖昧な場所でしか。


書けない、といい始めてからおおよそ二年が経過している。スランプと単純に呼んで済ませられる期間ではないし、なにより終わりが見えない。数ヶ月前に書いた文章や、去年数本書いた短編を読めば、なんとなく自分自身の「文章を書く力」みたいなものを信じられそうになる瞬間もあるのに、100点ではないという理由だけで自分の能力全てを闇の穴にでも捨てて「文章を書くのはもうやめます」なんて誰も聞いていないだろうに宣言をしたくなる。


最近ではほぼ“書けない”ということだけを書いた手紙を友人に送りつけてしまったりして、そのような挙動を客観視するに、いい加減なにかしらのブレイクスルーが必要だと納得するに至った。もう書けないのではないか、という恐れやifの言葉では生ぬるい。おそらくこのままではわたしは永遠に書けない。しかも、書けないな、書けないな、と呟きながら二年も経っていて、にもかかわらず諦めようという気持ちのほうも豆粒のように小さいままさして大きくならない。つまり、諦めという終わりもどうやら用意されていないらしい、と気づいたことで、状況の打破に向けて、具合のいい昼下がりにでも一度思案しようと決意した。

 


やりなおしにあたって、さきほど一本の記事を読んだ。どういう経緯や背景かは知らないが、小説講座かなにかのログ記事だ。小説は自由でいい、と書かれていた。


自由、何も気にせず、自由でいいんです、と演説するようにマイクを持って写真に映るその人を、決して信じたわけではなかった。ただ、この言葉がわたしに刺さるということは、あるいは、わたしにとって「自由」がそれなりの価値を持つことなのだろうと自らのなかでの再発見が起こった。


とにかく長期的な視点においてわたし自身が満足することが大切だ。短期的な視点において納得したり満足したりしないことは、自分がいちばん知っている。仕事でも趣味でもそうだった。やっている最中は、その「作業」自体がたのしい、それだけでいい。納得や満足は、その作業を「仕事」として振り返ったとき、つまり全てが過去になってしまったあとでようやく訪れる。だから、いま、目の前の文章に納得できなくても問題ない。満足を感じられなくても仕方ない。

 

とにかく文章というものから離れてしまうことに第一の問題がある。第二、第三の問題もあるのかというと、もちろんあって、仕事のほうが忙しくてなかなか筆を取れないこと、腰痛や目の疲労などがたまってそもそも身体を動かすのがわりとしんどいこと、などがそれにあたる。まさかこんな物理的な問題に二十代ですでにぶちあたるとは思っていなかった。でも、別に病人というわけではないし、仕事人であるときの自分の勤務態度を見るに、長期の物書きや作業にはそれほど苦労しないほうだ。長時間労働になれている、というただそれだけのことだけれど。


仕事が忙しいのは、もう勤め人であるほうのわたしがなんとかするしかない。徐々に状況は改善されている。あとは人生のなかでなにをいちばん大切なものと位置付けるか、という話で、これまで「チーム」を大切にしてきた分を、「小説」に変更するだけでいい。


そういえば、会社においては結局、頼られたり誰かが困っていたりするとつい自分のほうで手を出してやってしまうことが多かった。どこまでもサポータータイプなんだろう、と思うので、擬似的にその状況を小説の執筆作業においても作り出せればよいのかもしれない。アイデアはまだない。


まずは、自分の人生の優先順位をひっくり返すこと。そういえば「天気の子」でも須賀さんが言っていた。歳をとると優先順位の入れ替えが難しいと。いまのうちにやっておこう。


では優先順位第1位が「小説を書くこと」である人間はどのように毎日を過ごすべきか?  を考えてみる。


まずは、小説を読むこと。一見「書く」と正反対の行動だが、書きたいと思うようになるためにも、また実際にそれなりの小説を書くためにも、小説をたくさん読んで、他人の文章を見学することは大切だ。


つぎに、書くこと。とはいえとにかく「書け書け」と思っても、明日からとつぜん書き始めるわけもない。これが最大の難関ではあるのだが、「読んでいれば書く気になるはず」という仮設が多少なりとも背中を押してくれることを祈る。そのうえで、いくつか目標とかを設定して、(ちゃんとやれる自信がぜんぜんないけれど)ブログとかで報告して、なんとか推進力を得たい。


結局私たちは、「書くぞ」と決意したら、あとはほんとうに書くしかない。それ以上に細分化した目標を立てようと何度か努力はしてみたけれど、どれも失策に終わっている。とはいえ昨日と何一つ状況を変えないままに明日がきっと転機になると信じるなんて莫迦げている。

 

ということで、時間制で自分に制限を持たせることにした。あと、家はやっぱりダメだ。どこかの喫茶店で二時間こもる、物書きしかしないことにする、その繰り返しでようやく世界が変えられるかもしれないーーと信じる。


9月16日は、とりあえず二時間ほど字を書いた。大した量ではなかったし、大した作品でもなかったけれど、でも書けた。なにもできないと思うときには15分の即興小説を4回ぐらいやればいい。平日の二時間はあくまでも一区切りの目標として、ノルマとは考えないようにしようと思う。できるかな。なんとかなりますように。

 

 

「小説が書けない」と言い始めたころ、このできない気持ちをなんとか活かそうと思ってキス・ディオールシリーズのストアを作った。かれは、周囲の誰がなんと言おうと「自分はなにもなしえない」と信じている少年で、かれの立ち直りを書くことができれば、自分もトンネルの外にでることがかなうのではないかと思っていた。

 

いい加減にこの話ももう終わりにして、もうすこし景気のいいテーマにうつりたい。

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

 

 

わたしは「最初の一行だけ読めば小説の出来は分かる。もっと言えば、タイトルだけでも分かる」という文に傷ついていて、それは自分の名づけのセンスがあまりに壊滅的だからでもあるのですが……、この小説は、本棚のなかにしまわれている状態の背をみるだけで、「面白い」って直観できる題名だよなあ、と深くおもいます。*1

 

※以下、すべてネタバレありの感想記事ですが、もし私だったら、このネタバレを読んでから本編を読んでも別に大丈夫かな、と思います。(主観です)(結構短く読みやすいので、すぐ手に入るならさくっと読めますよ)※

 

 

 

 

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

「実弾」と「砂糖菓子」。

 

 

 

 

不幸だと思っていた自分の境遇が、まるでなんでもなくて、

お菓子の家で過ごしていたのは自分のほうだったと知る。

むしろ、兄を神のままに「飼育」して、優雅に楽しんでいたのは自分のほうだった、と。

 

十四歳の子どもが持つ「閉塞感」は、ある種特権的なものだとおもう。

 

 

「傍観者と飼育者のロール」

どうして十四歳の子どもってのは、傍観者にあこがれるものなんでしょう。まだまだ世界は自分の手の中にある小学生と違って、自分の道を決めて進み始める高校生と違って、中学生はそのはざまにいて、受験のことに多少悩んだりはするけれど、まだまだ「本当の選択」はすこし先に用意されている、いわば階段の踊り場にいられる3年間。

 

そんななか、主人公のなぎさはどうあっても「飼育者」として描かれている。

 

「美しい生き物と飼育者」
成長期にある少年少女にとってーーいや、いや、ぜんぜんそれだけに限らないのかもしれませんが、とにかく人間にとって、他人を養育したり面倒をみてやっているという感覚は、なかなか気持ちがいいものです。そして彼女は美しい兄を飼っている。

兄は浪費家で、美しくて、優しくて、賢くみえる。価値のある人間に見える。そういう人間の飼育者になれるのは、自分自身まで神になったようで気持ちがいい。そしてこの愛は愚かなことかもしれないけれど、そう珍しいことでもありません。事実、わたしはこの「神」が出てくるシーンになってようやく、この小説はひょっとしたら読む価値のある小説かもしれないぞ、と思い始めました。美しい男がどうにもこうにも好きなんです。なんなんでしょうね。


「そして立ち現れる現実」

物語の後半、急展開に、
砂糖菓子の世界が解けて、グロテスクな現実があらわになる。
大切にしていたあめだま(兄)はわたあめが飛んでくみたいに神性を失い、

なぎさの口のなかからきえて、ほのかに現実のかおりがせまっている。

 
飼育物をうしなったなぎさは、もはやなにかを見下ろすだけではなくて、顔をあげて生きていかなくてはならなくなる。そんなにあからさまでなくたっていいのに、と思うほど唐突にしっかりと堅実にただしく間違いようもなく恐ろしいまでに、現実は、少女の前に姿を現した。

 
 



そしてこの小説を衝撃をもって受け止めることができず、ただ文字をなんとか追いかけて読み*2、最後の結末にも、感じるところがありながらも、ただ静かに本を閉じていられる、鈍くなった自分の心の変化、劣化、あるいは進化を読み取ることができたのが、いちばんの収穫であるように思います。中学生のみなさん、はやくこういう小説をたくさん読んでください。

 

 

 

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*1:やっぱり、やっぱり、題名が良い。題名のおかげでおおきく成長した作品はほかにも結構あると思っていて、たとえば「限りなく透明に近いブルー」なんかは、泥のうえにある上澄みをあつかったような作品だという感じがあるけれど、やっぱりそれって、題名が「限りなく透明に近いブルー」だからなんですよね。そうでなかったら、ただの泥(だったとしても、凝り固まって見ごたえのある美しい泥なんだけど)だと感じてしまうような気がします。

*2:ストックホルム症候群」だとか「サイコパス判定のクイズ」だとか、あまりにあからさまな、と思ったけれど、むかしはこういう小説って多かったような気がする。ノウハウ小説とか、ネット小説とかが増えたからか、こういうことを「読者が知らない体で」書かれた小説ってもはや珍しくなってしまったのかなあ、と。

感想記事「Hangman's knot」

 

 

幸せが目にみえたとして、それはぼんやりとしたひかりや暖かな赤色を纏っていて、重さはなさそう。たとえるなら綿菓子のように。

 

その「幸福」を持続させようとおもうとき、風船をつかんで離さないみたいに、わたあめを永遠に作り続けるみたいに、軽くて優しいものを保ち続けていく、という印象がありますが、本作における「幸福」は重たくて、きっと水分を含んだ布袋みたいにずっしりとしていて、とても抱え上げることはできず、そのへんにつるしておくしかない、その幸せの死体を、いったいどう取り扱えばいいのか。

 

 - 以下、既読の方むけの記事になります。

本編はなんとWeb上で読めてしまいますので、みなさまぜひ。

misumieriza.wixsite.com

 

 

 

 

 -以下、既読者向け。

 

やはり、能代の話をしようと思います。

 

どんな人間にも父親と母親がいて、その両親から半分ずつもらって「自分」が作られています。しかし能代の場合、とある女の手によってある種「母親」は不在であり、その徹底した排除の結果、かれのベースはほとんど父親で塗り固められてしまいました。14歳のあの時点までは。

 

精巧なレプリカ、あるいは後続品であるところのかれは、
型番までふくめてまったく同じ「オリジナル」を有しています。

 

当然、その「秘密」が今作最大の魅力であるわけです。

一癖も二癖もある、狂気を宿して暴力的な部分を持つキャラクターたち、煙に包まれたような世界。出生の秘密、名前の秘密、懐かしい呼び声、謎かけのような手記。どれひとつとっても好みの要素。

その世界で、オリジナルとレプリカが出会う。

 

この小説は、母親の死の原因を探るミステリーでありながら、少々猟奇的な奇怪さも持ち、アイデンティティ確立のための成長譚でもあって、そして、ふかい愛の物語でした。



結木能代は、最初の14年間を一人の男をベースに作られて、その後9年間を自分が複製品であることを知らずに過ごします。そんななかで唯一かれがかれ自身の「要素」として認識していたのが、その衝動的な絞殺による殺人願望であったというのは、あまりにも運命的ではないでしょうか。

考えようによっては結木真希奈の自身の『絞殺』だって、運命的で衝動的であり、本人以外のだれにも変えられない彼女自身の「要素」だったわけです。組み合わせれば、結木能代は、父親のベースに、母親の絞殺衝動、その2つをかれ自身の骨組みとして、23年をかけて、ようやく両親のかけあわせであるところの「自己」を獲得したのだといえます。

「結木家短編集」においてはさらに、その確立がはっきりと見て取れます。結木は父親とも母親とも異なる自己を獲得して、そして前に進んでいる。反対に九院は、未来よりも過去をなんども大切になぞるタイプの男にも思えてしまうのですが、その対称性もどこか美しくおもえます。


 


個人的に、よい小説というものは、「愛情というのは、」に続く言葉が作中に明瞭に美しく表現されているものだと思っています。

 



Hangman's knotにおいて ”愛情というのは、”
聞こえなくても遠くから名前を呼びつづけること、
届かなくても交換日記を書き続けること、
そして、今日も明日も永遠に続くもの。

 

2018年に読んだ本のはなし

 

2018年に読んだ本のはなし。

 

 

2018年の「最高の十冊」を決めることには意義がある。毎年スクラップするように「最高の十冊」を決めていくことには意義がある。スタンプを押すみたいに毎年の好みを記録しておくことで、後から振り返ったときに、きっとその遷移になにかを見つけることができるはずだと信じている。

よかった本について語る前に、2018年に読んだ本をすべて書いておこうと思う。

 

2018年に読んだ本

 

 ※商業書籍として読んだ本と、オーディオブックとして聴いた本のみ記載しています。(青空文庫や同人誌は記憶がおぼろげすぎるのと、記載されたくないという方もいらっしゃるかもしれませんので省きました)

※多読よりは特定の本を何度も読むタイプなのでここに書いていない読書分の方が多いのですが、「初読」もしくは「10年ぶりに読んだ」本を記載しています。

 

28冊でした。(他にも漏れがありそうです)

 

良かった本


「わたしを離さないで」「死に至る病」は、人生で読んだ本のベストテンに入るほどの素晴らしい本でした。

また、階段島シリーズとスカイ・クロラシリーズも大変美しく感銘的でした。

図書館戦争も、いままで読んだことがありませんでしたが、たいへんよかったです。一冊切りしているように見えておりますが、ぜひ2019年は続き読みたいなあと。。

あとはDear Enemyもなかなかよかった。十角館の殺人も、序盤とくにワクワクして面白かったです。

アルジャーノンに花束をは、十数年ぶりの再読でしたが、子どものときには分からなかったことも感じられるようになっていて、とても味わい深い一冊でした。

 

2018年時点のベストテン

 

魔性の子
屍鬼
「わたしを離さないで」
アンドロイドは電気羊の夢を見るか
「こころ」
「ひらいて」
「孤島の鬼」
「若きウェルテルの悩み」
「月と六ペンス」
死に至る病

 

色々と悩みましたが、こうなる気がします。

 

 2019年に読んだ本の中からは「わたしを離さないで」と「死に至る病」とが入りました。10本の指の中に入るような本と、これからも毎年出会い続けていられたら、と思います。

 

 

2019年は、古典や名作、もしくは商業的に成功している現代作家の本などを読みたいなと思っています。

 

「流星ワゴン」


 

人を救う手立てはたくさんある。

 

金を渡したり、やさしい言葉をかけたり、愛してみたり、境遇の変化をもたらしたり。現実を変えることは、多くの場合たやすい。ちょっとした気遣いや思いつきで、意外と世界は変わってくれる。

 

しかし、あまりに深く沈みこんだ絶望のなかには、とうてい変質が許されていないものもある。

 

泥のなか、地層のおく深く、とにかく触れない遠くに現実の原石があり、だれにも変えることはできない。どうしようもないものの前でたちすくみ、医術も科学もなにもかもが彼のまえから去ったとき、最後にひとつ残されている救いの手段があるとするならば、それは”文章”しかない。

 

(というテーマの短編小説を書きかけのまま放置してあります)

  

 

「流星ワゴン」は、そういう物語で、ひとが死のうとするとき、つまり客観的な見方はどうあれ本人が「終わった」と判断したとき、そして現実をなにひとつ変えられないとして、のこり一つ出来ることってなんなんでしょう。という話なのだ。

 

あらすじはこちら。

 

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■あらすじ(wikipediaより

 

永田一雄は死んじゃってもいいかな、と思っていた。

 

仕事はリストラ・妻からは離婚・子供は受験失敗で引きこもり。地元で入院している父親を見舞に行った時に貰える交通費の余りで何とか暮らしている有様。その父親も癌でいつ死ぬかも分からない。父親の見舞帰りに駅で酒を飲んで酔っ払っていると、ロータリーに1台の車が停まっている事に気が付く。その車には5年前、偶然見た新聞の交通事故の記事で死亡が報じられた橋本親子が乗っていた。言われるがままにその車に乗り込む一雄。そしてその車は一雄を、人生の分岐点へと連れ戻す。

 

降り立ったのは、仕事の途中で妻を見かけた日。他人の空似だろうと仕事に戻ろうとした所に、一人の男が目の前に現れた。一雄はその男の事を、よく知っていた。

 

その男は今の自分と同い年、38歳の時の父親だったのだ。

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久しぶりに小説を読んだ。ような気がする。

 

というのも最近キルケゴールの「死へと至る病」にかかりきりだった。もっとも愛すべきブックカバーはこの子どもにかけられていて、ほかの本は家でさっと読めるぶんだけ。まったく持ち出ししなかった。

 

とはいえあまりに読んでいなさすぎてこれはどうだろうということで、積読のなかから選んだのがこの一冊。自分で買ったのか、人に貸してもらったのか、実家にあったのか、同居人の本なのか、なにも出自はさだかではないが、ともかくもわりと以前からよい評判の聞く本で、何かの賞もとっているらしい。

 

重松清は「きみの友だち」がとても良かったので期待しながら読んだ。

 

■感想

 

・文章はたいへん読みやすい。

 

ラノベみたいな文章でもある。「きみの友だち」のときにもだいぶライトな文章だな~と思ったけれど、「流星ワゴン」はいっそう軽い。主人公が38歳で、テーマも人生の疲れやくたびれや家族愛について(男女愛を扱ったものではぜんぜんない)、というところが、ライトノベルとはとうてい呼べないものの、文章の軽さや設定のファンタジックさなどはかなりライトノベルのノリに近いのではないか、という気がした。(所謂なろう小説的な文章ではなくライトノベル的な、というぐらいのライトさです)

 

・人間の、ふとしたときの気まずさや気恥ずかしさ、気後れやあきらめなど、そういった一種なさけなくもある感情を、ちょっとした行動の描写で表現する、というのがほんとうに上手かった。

 

・大泣きした。

 

------------------------------------------------------------以下、ネタばれ含む。

 







・子どもが山から帰ってきてしまったのがなんとなく解せない。「まだあのワゴンはこの世界のどこかを走っているのです、あなたもぜひ」と読者に語り掛けたいがためだけに残したようにすら思う。帰ってきてくれてよかったなあ、という感じがあまりしなかった。

 

・映像化するとたしかによさそうだな、という感じがあった(ドラマ化しているようです)。最後にみんな幸せになるハッピーエンドも、映像ならより深く感動して見れそう。

 

・しかし、子どもが自分の死んだ場所へ向かっていくあのシーン、あそこだけは文章のほうがよさそうだなー……文章のいいところは、あくまでもペースを自分で決められるところですよね。一行一行泣きながらゆっくり進めることができる。より深く感情を楽しめる。

・子どもを持つと人生二週目に入れる、という論、いままでも何度か聞いたことがあった。とすると人生というのはそもそも30年程度しか必要ではないのかもしれない。2回か3回か、何回か同じことを大切に繰り返して、そして死ぬということ。

・「2週目」を強調するための要素として、「同年齢の父親の登場」があった。どこまでも「くりかえし」と「ねがい」に着目した作品だった。同じことが、何度も繰り返され、現実はひとつも変えられないのに、気持ちだけが変わって、最後には救われるかもしれない、という話。

 

・いくつか「これ誰が言ってるの?」みたいな台詞があって、多少戻ってシーン確認をしたりしてもやっぱりどっちがしゃべっているのか分からず、なんだかモヤっとしたところがあった。

 

・「きみの友だち」のとき、多少ラストが強引にまとめられすぎているというか、とつぜん知らない男が出てきて答え合わせされているような、不思議な抵抗感があったのだが、「流星ワゴン」においては山から子どもが帰ってくるシーンがそれにあたるような気がしていて、「ううん……そうなっちゃうのか……」と、筋書きに妙な強引さを感じてしまったり。

 

・とはいえ。読みやすく手触りがあり大号泣できる、よい本でした。

0310-0311 休日メモ

美術館や博物館に行ったら、行ったぶんだけなにか残しておきたい、と思ったので書いてみました。

※いつもと違って本気でただの日記になります。しかも長い。すみません。

 

■至上の印象派

www.buehrle2018.jp 

この展示にわたしが行かないわけがないのだが、というぐらいツボ。

 

ほのかな恋心を由来として、ゴッホの絵がありそうな展示には片っ端から行くことにしているのですが、本展示は一室分がまるまるゴッホにあてられていてたいへんすばらしかった。浮き上がる絵の具のうごめきとおぞましさ、彫刻作品みたいでとっても素敵ですよね。先日もゴッホの映画を見たばかりだったので、「種を撒く人」が見れたのはとてもよかった。(仕事帰りに行ったら、ねむくて大事なところ5分ぐらい寝ちゃったけど)

 

あと、以前ブログにも書いたとおり、最近はモネにもはまっていました。

夏にフランスに行くときにモネの庭にも行こうかな、どうしようかな、と悩んでいたり。

(※でも、わざわざ初フランスで行くほどのところでもないような……)

 

音声ガイドは、井上芳雄さんだったので躊躇わず借りることに。先日ダディ・ロング・レッグスの素敵なジャーヴィス役を拝見してからというもの、ひそかにファンなのです。


混雑してはいるものの、思っていたほどではなく、多少待てば絵の前に立てる程度。まだ会期前半だからこの程度で済んだのでしょうか、ご興味のあるかたは早めに行った方がいいかもしれません。最近視力があまりに悪くて、なかなかパネルの小さな文字をちゃんと見られないのですが、この日の混み具合は「きちんとルートに沿っていけばパネルや絵の前を通れる」ぐらいだったので、ゆったり歩きつつガッツリしっかり見れました。

 

最初のほうで目に留まったのはドミニクの肖像画。とても美しいなめらかな絵のとなりに、すこし下書きらしい絵が飾られていて、何の対比なんだろう? と不思議に思いましたが、パネルや音声ガイドによると「普段は精密に丁寧な仕上げをする画家だが、これは奥さんのためにささっと描いた絵」なんだとか。

画家本人にとってもさまざまな絵があるのだよなあ、と。丁寧に書かれた絵のほうが、やはり凄い感じはするのですが、奥さんを描いた絵だと知ると、なんだか愛情がこもっているような気がしてより長く見てしまいました。(このようにわたしは簡単な精神をしている……。)

 
その後もマネ、モネ、ルノワールドガピサロなど、さまざまな画家たちの絵が並んでいき、これだけのコレクションを精力込めて収集した人がいるということがなんだか信じられませんでした。ルノワールの描くふんわりとした世界観はやはりいつも可愛らしく、むかしはあまり好きではなかったのですが、数年前のルノワール展で「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」を見てからというもの、そしてかれの「絵画はつねに愛らしくかわいらしいものでなくては」という言葉を読んでからというもの、なんだかいつも気になる画家のひとりです。ちなみにわたしは喫茶店のルノワールが好きです。(ほんとうに関係ない)

そしてなぜか一番気に入ったのはドラクロワの「アポロンの凱旋」でした。皆さんあまり関心がないようでささっと通り過ぎれていかれていたし、ポストカードもなかったのでひょっとするとこんなに好きなのはわたしだけなのかもしれませんが、ものすごくよかったです……近くで見ても離れて見ても素晴らしかった!いつかもう一度会いたい。

シニャックのうるわしい点描画も堪能できました。シニャックと、あと名前を失念してしまったのですがもう一人の画家とが、時代は違えど同じ聖堂院を描きました、という見せ方で2枚の絵が並べられていたのですが、もう一人の画家の方が描いた絵があまりにうますぎて綺麗に撮った写真のようにしか見えず、なんだか「絵を見比べている」というよりも「この絵のモデルはこれです」と元写真を見せられているような気分に。あとで売店でポストカードを見てみましたが、小さいところがつぶれてしまうともう本当に写真にしか見えない……しかし、写真がない時代には相当重宝されたでしょうね。(いや、別に時代がいつであれ写真のような絵を描ける人はすごいのですが、風景を写し取る代替手段が絵画のほかにないという独占技術の問題で。)

そしてメインのルノワールのイレーヌ嬢。可愛らしい。可愛らしい! が、割とそれだけでした。あまりに可愛らしいが……。となりにあった、ルノワールが晩年に描いたという裸婦の絵は、音声ガイドによるとかなり手もおぼつかない中で描いたとのことで、生への執着のようなものをかんじてしまいそちらのほうが印象に残っています。しかしイレーヌ嬢のような絵を見ると、肖像画の文化って素敵だなあと思いますね。現代日本でも小金持ちはどんどん肖像画を描いてSNSのアイコンにしたりしてほしい。かわいい。

そして後半はセザンヌへ。昔は良さが分かりませんでしたが、さいきんほんのり少しずつ好きです。「赤いチョッキの少年」がたいへんよかったです。構図が美しすぎる。ずっと見ていられる。。そういう力がある。この少年の付箋もポストカードも買ってしまいました。(アートパネル購入まであと一息だったぞ。)

その後ぐらいにゴッホの部屋があったような気がします。(ゴッホ、あまりに好きすぎて最初にほとんど書いてしまったような気がするな! あまりに好きです)
肖像画も素晴らしかったですし、「花咲くマロニエの枝」もかなりサイコーでした。何年でも見ていられる。。。うん十万円のコピー絵(絵具の立体感も、3Dプリンタで再現されている)があって、こういうことにお金を使うべきなのではないか……? と一瞬血迷いましたが、10秒ほど瞑想して気持ちを落ち着けました。

終盤はゴーギャンやブラックも。ゴーギャンのひまわりは感情をつよくゆさぶりますね。なんだかもう絵を見て感動しているのか背後のストーリーに感動しているのか分からないレベルになっている。ブラックはいつもとても好きなんですが、ピカソは「色のバランスうまいなあ」ぐらいしか分からないので、いつも通り「うまいなあ」と思っただけで通り過ぎてしまいました。ぐーんとゆさぶられたことがないが、とつぜんモネが好きになったみたいに、いつかピコーンと分かる日がくるのだろうか。そんな日がいつかでいいので来ますように。

そしてモネ。最後の睡蓮の絵! ものすごかった。たしかにものすごかった……けれど、大きい分なんとなくざっと描かれたような印象をうけて、いや、もちろんものすごい(※3回目)のですが、先日見た「睡蓮の池」のほうがつよく訴えかけてくる感じがありました。どうしてかしら。ここは撮影可能ルームだったので、なんだか落ち着かなくてあまり長く見れずサクッと退散しました。最近は撮影可能展示多いですよね! やはり口コミ効果で集客への好影響があるのだろうか。経済がまわっている感じがしていいですね。

話がお金の方向にそれてしまいましたが、モネ、やっぱりこの人は盲目的に自分の身の回りの風景と幸福を愛していたのだなあ、という感じ。ルノワールもそうなのですが、愛らしいもの、美しいものに対する執念や愛情の盲目さがみてとれるのがとっても好きです。


総じて、たいへんよい展示でした!
この二日間で4つ見ましたが、やはり一番気に入った展示でした。さすが新国立美術館。すばらしかった。

■全日本水墨画秀作展

実はこの日、友人に30分ぐらい遅刻されたので、印象派展の直前に空いた時間で3階の無料展示も見てました。

 

「書」はぜんぜん興味がないのですが、水墨画ならわたしでも楽しめるかも! と信じ入ってみることに。とはいえあまり時間はなかったのでするりと通りぬけつつ、気になるものがあれば立ち止まりつつ、という感じで鑑賞しましたが、なかなか面白かったです。白黒だけでこんなにいろいろ描けるんだ、とびっくり。

 

油絵とかだと、道具を触ったこともないので、どんなふうに混色するのか、どんなふうに描いていくのか、間違えたときにどう修正するのか(えぐったりできるの?)とか、分からないことばかりですが、さすがに墨絵となると、筆と墨で描いたんだよなあこれを……と想像がたやすいので、これだけの大作を仕上げる力のすごさが分かります。何度か間違えたりしたのかしら。墨こぼしちゃった子いないのかな、とか。

 

展示を終えて出たところで、「19歳の少年が書いた”恐竜の”絵があります」というポスターに気づいたのですが、「恐竜の」のところ、明らかに上から紙を貼って訂正された跡があったのが面白かったです。あんまり熱心には詮索しなかったけど、たぶん元々は「犬の」なんたら~と書いてあったような気がする。

■カフェ・ド・ラペ

とつぜんカフェの話が始まる。休憩のため、Twitterで「印象派展」の検索したときに、どなたかが呟いていたカフェ・ド・ラペへ。

 

なんとなくですけれど、同じ展示を見に行くような人とは、同じカフェを愛せるような気がしています。

(って、「印象派展」ぐらいになると範囲が広すぎるかもしれませんが)

 

味がレトロでたいへん美味しかったです。(カフェインがちょっと強く、のちのち水で薄めないと辛かったですが、これは自分の体質のせい)

 

庭にあこがれますよね。とても可愛らしいカフェで、庭園調のインテリアが素敵でした。

 

■ルドルフ2世の脅威の世界展

www.bunkamura.co.jp

印象派展後、友人がまだまだ見足りないというので、はしご2軒目。

 

Bunkamuraは初めてだったのですが、壁紙の色や模様がかわいかったり、ミュージアムショップが充実していたりでとても好きになれました。美術館の出口すぐに本屋さんやおいしそうなレストランがあるのもいいですね。渋谷ってなんだかあまり行きませんが、わりと近いし、もう少し頻繁に足を運んでみてもいいのかも、と思いました。

 

音声ガイド付きで鑑賞。ガリレオ・ガリレイの弟が作曲したという曲を聞きながら赤い壁で囲まれたなかを進んでいくと、なんだか名のある貴族の家の廊下で楽しませてもらっているみたいな気持ちになれました。(まさに「驚異の部屋」!)施設全体が大きすぎないので、個人の邸宅のような印象を受けるのでしょうね。

 

先日、大英博物館展がありましたが、あのときにも「驚異の部屋」には憧れを抱いたものです。作中でだれかに個人博物館を持たせようかしら。リュエルは魔術士専門の史学家という設定なので、ひょっとすると不思議な品を私邸に収集していたりするかもしれませんね。

 

そして、「曲だけ」聴ける音声ガイドっていいですよね!(願わくばリピート再生機能もつけておいてほしい。もはやウォークマン

 
ちょっと奇天烈な雰囲気だったのもあり、なにかしらの着想を得たのか、メモには謎のみみず文字が躍っておりますが何を書いたのかさっぱり思い出せません。いつもこうなんですよね。メモる必要あるのかしらもはや。

そうだ! ドードーがいました。作品数は少ないながら、音声ガイドでもしっかり取り上げられていて、グッズもあって。ドードー、キャラクターとして大人気ですよね。わたしも好きです。なにをあんなにかわいらしく思うのか分かりませんが、初めて剥製を見たときには、この生き物がもうこの世界のどこにもいないということをものすごく残念に思いました。

 
あとはガリレオ・ガリレイケプラーの作品も多く、博物館のような気持ちでも楽しめました。昔は天文学者と物理学者と魔術師と錬金術師の境がうすかった、という話、ロマンでしかない。

そしてサーフェリーの絵が図鑑のようでうるわしく。ルドルフ2世がお気に入りなのもうなずける。皇帝自身はほとんど外には出ず、ただ作品や標本を集め続けた、とのことですが、こんなに面白いものに囲まれて生きていたら、たしかに外になんて出なくていいという気持ちになったかも。

そしてほぼラストに、目玉のアルチンボルドアルチンボルドは花の絵と海洋物の絵がいっとう凄いと思っているので、野菜しかないのは少し切なく……野菜もじゅうぶん見ごたえのある絵なのですが、できればまた花も見たかったなあ……と残念に思いました。(ルーブル展でまた来るそうですね!)
しかしこの展示の流れだと、野菜の絵がルドルフ2世にとってどれほどの価値、そして重きを置くべき絵だったのか、という部分が理解しやすく、普通にアルチンボルドの他作とドンと並べ置かれるよりも野菜だけに集中できたので、これはこれでよかったのかもしれません。

アルチンボルドの絵を模した立体物の作品などもあって、しっかりガッツリ楽しめるよい展示でした。なにより撮影ポイントが最後のショップ領域にあるのがいい。どうしても撮影ポイント付近はカジュアルな雰囲気になってしまいますからね……いっそショップ側にあるほうが嬉しい……。

若干目玉が少ないように感じましたが、雰囲気や音声ガイド含めてたいへん楽しめました。また、ボードに書いてある文言や、中途にある映像展示もなかなか面白く、見ごたえがあってよかったです。

  

欠点を挙げるとするなら、照明のあたりでしょうか。あの違いってなんなんでしょうね。どの施設も同じように光が当てられている感じがするのに、なんだか見やすい美術館とてらつく美術館があるのだよな。。。

 

全体的に、博物館らしいような、陳列室らしいような、小ぶりでも面白い展示でした。

 

結論としては「やはりローマ皇帝の収集物はすごいな」「財力がすべてだな」という感じ。

 

仁和寺と御室派のみほとけ-天平真言密教の名宝-

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行こうかどうかギリギリまで迷っていた展示。


最終日だったので、混んでいることは分かっていましたが、思い切って出かけてみました。
二時すぎまでぐだぐだ悩んでいた。こういうとき朝からスパッと行くことができないのが自分の嫌いなところです。

 

大体三時ぐらいに到着。時間がないので貸し出し列に並ぶのも惜しく、音声ガイドはなしで進みましたが、借りたほうがよかったかもしれません。

(知らなかったのですがいま空海の映画やってるんですね。そのキャストの方たちが音声ガイドやってました)

 

最初のほうはさまざまな書や歌の展示が中心。「書」におそろしく興味がないもので、見てもなんだかよく分からず、とりあえず漢字(のようなもの)を心のなかで黙読してみたり……。

 

パネルを読んでも、正直よく分からないものばかり。
うーん、と思いながらも、さいきん友人に「今まで興味が持てなかったものに触れてみよ」と箴言をいただいたばかりだったので、とにかくなにか感じられるものがないかと見つめてみましたが、結局なんとなくも分からないままでした。後醍醐天皇の書とか出てきたときはさすがに「おっ!」と思いましたが、しかしそれも「わたしは後醍醐天皇の書を一度見たことがあります」という経験作りぐらいにしか、ならなかったような気がする……。

 

昔の書って結構残ってるのね、とか、虫食いってこんな感じなんだ、とか思いながら進んでいきました。あと、梵字はいつ見てもカッコイイですね!

 

1展示会場は書や道具、第2展示会場は仏像メイン。書は分からないけど、仏像なら楽しく見られるのでは、と第2展示場に思いをはせ、時間がないことを理由に第1展示場の最後のほうは結構スルー気味で通りました。(といっても人が多くて、どの展示も立って静かに眺めるなんてことは出来ない状態でしたが)

 

Twitterで事前に行った方の感想を見てはいたのですが、やはり聞いていたとおりただただ人が多い。まあ最終日に行った人間が言えることではないけれど!w 第1展示会場のほうが、人が詰まってる感じがありました。

「普段美術館・博物館に行かなさそうな人が多かった」という感想を見かけて、どういう意味だろうな、と思っていたんですが、行ってみてなんとなく納得。年齢層が極端でした。年齢層高めの方もいれば、普段は見かけないようなお子さんもいれば。結構みんなベラベラしゃべるし、列は急かされるし、博物館、というよりは見世物小屋のような雰囲気でした。まあ混んでたしね。

 

2会場ではSNSで大人気の、仏像写真を撮れるコーナーもあったのですが、みんなパシャパシャ撮るのでメイン展示なのにゆっくり見れず。実際のお堂を再現されたとのことで、圧巻な感じもありつつも、でもなんとなく物足りないような気も。混んでたからですかね。でも、会期後半はわりとずっと混んでたみたいなので仕方がないのかも。ここもうるさかったです。たぶん仏像にとってもこれほどうるさい場所に長く留め置かれたことはないのではないかと!w

 

パシャパシャゾーンが終了したら、最後に仏像展示が数部屋続いて終了。この仏像ゾーンが、個人的には一番面白かったです。木造でこんなにきれいに作れるんだな~と。仏具ってやはり目の前に立ってみると、なかなかぐっとくるものがありますね。ちょっとでも横に角度がついちゃうとだめで、まっすぐ目の前に立つ。するとなんだか、像のまぶたはもちろん閉じられているのですが、しっかり見つめられているように感じて、すこしの恐ろしさとありがたみを感じました。実際にいくつかの像の前では手を合わせている人も多く、たしかにそういう力のある像だよなあ、と。

 

こんなに仏像に近づけることってなかなかないでしょうし、後ろ側が見れるようにぐるっと周りこめるように展示されていたのもよかったです。後ろ側になにかいい装飾がある、というわけでもないのですが、仏像の背後ってなかなか見れるものでもないので。

 

話はそれますが、ちなみにいままでで一番「すごい!」と思ったのは、三十三間堂です。とつぜん仏教に正式改宗しそうでした。本当にすばらしかった。あの像も後ろから見てみたいものです。。。

 

最後の目玉展示は千手観音。ほんとうに千手持っている観音はこれだけ! というお触れのやつです。これもぐるっと回れるようになっていました。どこから見ても手が伸びていて、細かい造作が本当に素敵でした。こう書くのも大変アレだが神がかっている。

 

展示の周囲で叫んでいる方がいて、こわかったのではやめに退散しましたができることなら数十分遠目でも眺めていたかった。こういうときに自分のむやみな繊細さがいやになりますね。(人が大声出してて怖かったから出るって。。。)まあでも、展示はすばらしかったです。

 

一緒に「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」という展示もやっていたみたいで、そっちのほうにもちょっと興味があったんですが、出た頃にはもう閉館してました。常設展示や併設展示があるところは早めに行かなきゃ損だな~と分かりながらも、なかなかいつも腰が重たい。

 

たぶん、「いつでも行ける」と思うからこうなんでしょうね。田舎にいたときとは比べ物にならないぐらい展示も多いし、選べるし。あんなに行きたかったジブリ美術館藤子不二雄館もまだ行っていない。いい加減にしたい。



ほんとうにただの自分メモになってしまった。
今月は色絵展に行ったり、映画をいくつか見たりもしているので、そのあたりも記事にしたいところですね。なにかしらこのインプットが創作にむすびつきますように。

睡蓮の池

初めてクロード・モネの「睡蓮の池」を見たとき、わたしのむねは締め付けられ、ぎゅっと水をふくんだスポンジが絞られるみたいにして、なにかが垂れ落ちるような、不思議な感覚を味わった。心臓からあふれだしたなにかはわたしの胃や腸のあたりを濡らしているようだった。ともかくも不思議な、内臓がどろどろに溶けそうなほど、と書くとあたかもグロテスクだけれど、とかくもわたしはその絵に懐かしさを感じて、見たことのないこの庭にどうしてか帰りたいと願い、どうしようもなくさみしくなった。

 

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名画を見たときの感情体験はいくつかに区分わけができると思っている。

 

ああ、これがかの、と教科書のなかの記憶を引っ張り出して、自分のなかのひとつの「良質な」経験としてしまわれるもの。あるいは、ふと足を止め、とうていそこから離れられず、まるで恋人を残してこの地を去らなくてはならないような、不思議な感傷をおさえきれないもの。もうひとつは、一見すると目はひくもののたいしたことはないのだが、その絵の前に立っているうちに、絵が襲ってくるような感じを受けて、強い衝撃を脳髄に残すもの。いつかもう一度会えますようにと、願いをこめずにはいられないようなもの。

 

睡蓮はそのすべてを横断した体験をよこしてくるものだった。

 

まず遠くからでも、ああ、あれがかの、と分かる。画面いっぱいに描かれた美しい庭。遠目でもその美しさが見落されることはない。楽しみに思いながら、ほかの絵をたどって、次々とバトンがわたされ、ついに「睡蓮の池」の順番がくる。わたしはとつぜん、ここ数枚の絵にかんする記憶を失う。どうしてもそこから離れられず、そなえつけの椅子に座り、しばらく連綿とつづく睡蓮の葉たちと見つめあっている。絵のなかの風景はどこか動き出すような気配があって、わたしが瞬きする一瞬だけをねらって風を吹かせているのではないかと、そんな気持ちにさせられる。これ以上ないほど自由が過ぎて、かえってどこか窮屈な感じさえある。この庭園のなかに一度入ったら、もう二度と出ることはできないのではないか。どこかの隔離された、静謐なサナトリウムのなか。あるいは夢のなか。二度と戻ることはできない世界の果ての風景。

 

この庭はきっと、春は当然、夏もうるわしく、秋は静かにきれいで、冬はいっそう美しいのだろう。

 

モネについてわたしは詳しくなかった。睡蓮をやけに多く描いた画家であり、生前に名声を得た印象派の巨匠で、顔のない女性の絵をやわらかく描いたひと。その程度の認識しかなかった。今までもいくつか作品を見たことはあったはずだが、これほどさびしくはさせられなかった。

 

この絵を描いた人のことを、ほとんど知らないのにもかかわらず、わたしはかれを哀れに思った。かれはたぶん、この庭の外には興味がなかったんじゃないか、と思った。執念とも呼ぶべき集中力がかれを絵のなかだけに引き込み、つつむ緑の香り、やさしい水音と立ち上る特徴的な草いきれ、そのすべてが彼を呼び続け、ついに帰ってくることはできなかった。彼が描いているのはその諦念にも似た、このやわらかい庭以外の世界をすべて切り捨ててしまいたいという決別のこころ、盲目的な庭への愛情、ただそれだけで、睡蓮や草たちは、彼の人生そのものであり、だからわたしはたぶんこんなにも寂しくなる。

 

やがて緑はわたしを襲いだして、わたしはどうしてもこの絵の前から離れられなくなる。撮影可能の美術館だった。ほかの絵の前ではカメラを出そうという気持ちになれなかったが、この絵だけはわたしも撮った。もちろん、当然、この池の魅力を少しも持ち帰ることなんてできないと理解していた。

 

コンサートに行く理由、美術館に行ってわざわざ本物をこの目で見たいと思う理由、このふたつは重なっていて、つまりわたしは、「ほんもの」を記憶に宿しておきたいのだと思う。一度「生」で聞いた歌声は、自室でCDをかけているときにも被って聞こえてきて、いままでは多少いいじゃないかと思う程度だった楽曲が、生で聞いてしまったら最後、大好きで一秒だって気も抜けない楽曲へ転変してしまった経験をわたしは持っている。絵はもっと分かりやすくて、教科書のなか、インターネットの画像検索、そんなもので見た絵たちは、どこかよそよそしく、魅力はそぎおとされて、ただ「かたち」だけがなんとなく分かるだけのものになってしまっている。しかしほんものを前にすると、絵というのは生きているみたいに動くのだ。そしていちど瞳のなかに「生」を宿せば、家に帰って、とんでもなくひどい出来のポストカードを眺めているときも、それなりに絵は鼓動を打つ。

 

なにかに意味を与えてしまうのが芸術の条件なのかもしれないと思うことがあって、事実わたしはあの美しい睡蓮の庭に似た風景を見るたびに、うつくしいものへの憧れのこころ、どうしようにも手に入らない平穏への憧憬、のびのびと小麦の焼きたてのパンだけをたべて川辺にしろのワンピースで寝転がりたい気持ち、そんな、とっくに捨てたはずの、どこか懐かしいその気持ちが、わたしを襲ってきて、しばらく帰ってこられなくなる。定時の鐘が鳴るすこし前に、目の前いっぱいのガラスの向こうのビル郡が、とおく夕暮れのなかに落ちて行って、青や紫や、時には緑がかった空が、薄くのびた雲だけをお供に色を変えていくのがすきだ。やがてすべての色が去って、黒塗りのやけに反射するガラスだけがのこり、外にはビルのうえについている赤い点滅灯しか見えなくなったころ、ようやくわたしは現実に帰ってこれる。すとんと、とつぜん目が覚めて指定の椅子の上に戻されるみたいに。

 

小説もそういうものでありたいと思っていて、絵や音楽が、なんとなく一瞬の情景やふわりとした感情をとらえることに向いているなら、小説は経験を消化することに向いていると感じる。わたしがあの睡蓮を見てから、どこかにあるかもしれないモネの庭のうつくしい情景を信じ、世界の美しさを信じることの盲目の美しさを愛していられるように、小説は、人々のうしろ暗い経験や口にするとつまらなくなるこじれた気持ちやそれでもこびりつく愛情やとれないひずみのようなもの、そんなものに意味を与えてしまうことが、たぶん出来ると、これだけはずっと信じている。

 

毎日夜がくるたびに、わたしは美しい絵画に幕の下りたのをさびしくかんじ、ふたたび日が上がるのを待っている。夜の暗さが一番好きだった子どもが。夜が現実で、朝は絶望だけれど、昼はすこしやさしくて、夕暮れがいちばんうつくしい。睡蓮が好きです。