@particle30

惑星イオはどこにある

20200204

普段、なにか言いたいことがないと日記を書かないようにしてきたが、今後はとくに理由がなくても時たま書けたらな、と思う。たとえば半年に一度とか、そういうのでいい。

 

というのも――これは数年前から薄々気づいていたことでもあるのだけれど、人間は、すぐ忘れる。懊悩の末に辿り着いた自分なりの心理も、布団のなかで芋虫みたいに丸まって泣いたあとに気づいた感情も、書き留めなければ忘れてしまう。たとえ記録していたところで、残っているのは文字ばかりで、伝わるのも記号だけだ。その時にたしかにあったはずの熱量は湯気みたいに綺麗に消失してしまっているし、それを思い出すこともできない。だから、後から読んで、「この時は熱があったんだなあ」と思える分だけの勢いをもって(つまり、今現時点の自分としては多少「やりすぎ」なぐらいで)日記を、思考を、スクラップするみたいに残しておかなくてはならない、と思うようになった。

 

十代のころも、それなりに文章を書いていたような気がするのに、わたしの手元には全く残っていない。もしお持ちの方がいたら送っていただけませんか? と虚空に投げかけたくなるほどで、ブログや日記やTwitterや、なにかしらあったような気がするんだけれど……。たとえば深夜のSkype通話を、2時間だけでいいから録音しておけば、あの頃の喋り方や思考なんかを、今振りかえることができたんだろうな、と思う。人間が覚えていられることは、わたしが思っていたよりもずっとずっと少ない。小説を読んだあと、映画を見たあと、必ず「よかった一文」「よかったシーン」みたいなのを記録するようにしている。どれほど心震えても、忘れるはずないと思っても、わたしたちはあっさりと忘れる。本当に覚えておくべきことだけを抱きしめていられたらいいんだろうけれど、記憶は単純な木箱のような作りをしていなくて、ただ、流動的だから、まばたき一つするだけでまたほら、なにか忘れる。

 

でもその代わり、「思い出す」ことだってできる。飲み会で夜の一時ぐらいになって、眠たくて、適当な相槌を打っているときとかに、ああ、こういうシーンがいつだったかあったなあ、とよく思い出す。なんだかそれは酷く懐かしい光景だ。酩酊の状態自体を好んでいるかといわれると全くそうではないんだけれど、しかし何かしらの温かな記憶に充足されて、酒を飲んだあとのフラツキが、ものすごく幸福なもののように思えることがある。

 

でもそれほど酔っぱらう飲み方をしたことは、さほどないはずだ。二十歳以後、酒を飲むようになってからは、それなりに節度があったはずだし……いったいどういうことなんだろう……と数か月頭の片隅でなんとなく考え続けていたんだけれど、先日とつぜん思い出した。そうだ、寮生活をしていたころに、朝方五時ごろの夜明けまで、ベランダに出て毛布をかぶり、寒いねえと言いながら、眠さで多少頭がもうろうとしてきた頃の感覚によく似ているのだ。酒じゃない、ただ夜更けまでずっと喋りあかして、頭が溶け切ったころの、限界の眠気。

 

いまならあったかいココアを抱いて、ポテトチップスでも食べながら、Netflixで動画を見たりしたかもしれない。でもあの頃は、寮の規則でお湯は使えなくて、自室では食べもの禁止で、Netflixは世界のどこにもなかった。だから冷えた水だけで空を見て、ただ君と話をしていた。あんなに仲が良かったのに、君が去年結婚したことも知らなかった。

 

自分の年齢について最近よく考える。まあ、まわりがよく結婚するような年代だ。「友人が結婚するんですよ」と言ったときの周囲の反応も数年前とはずいぶん変わってきて、「早いねえ」だったのが、「おお、適齢期ですもんねえ」と返されることが増えた。今はまだいい。あと数年経ったら、本当に何かが変わってしまって、そのはざまにいるんじゃないか、と思うことがある。明日は怖くないけれど、数年後が怖い。

 

結婚、というか子どもが生まれてしまうことが、本当に不可逆の変化なので恐ろしいななんて思う。こんにちは、さようなら、では終わらない、ほぼ永遠に続く関係を生み出してしまうことが恐ろしい。そういば昨日、たしか子どもが1歳ぐらいだったと思う、別チームの同僚を含めて、三人ぐらいで飲みに行った。夜の九時半まで、その人は一度もスマートフォンを見ずに酒を飲んで仕事の話なんかをしていて、男の人っていいなあと思った。奥さんが専業主婦なんだろうか。同じチームには、時短勤務で、在宅もして、いつも幼稚園から呼び出されているメンバーがいる。わたしは出来たら、たまにはふらっと飲みに行き続けられるような人生を送りたいと思っているけれど、それは到底無理だ、と思う日もあれば、どうしてその程度のことができないかもしれないだなんて思うんだろう、という気になる日もあって、わたしの人生の難易度がどちらに設定されているのかまだ知らない。

2019年に読んだ本のはなし

 

いやーびっくり。2019年、終わってしまいましたね。「2020年」の響きにはどうもなれませんが、契約書を作ったり、議事録の日付をつけたり、そういうことをしているうちに、あ、いま2020年にいるんだな、と少しずつ呑み込めるようになってきました。

 

さて、では2019年に読んだ本のはなしをします。

ちなみに、2018年に読んだ本のはなしはこちらです。

meeparticle.hatenablog.com

 

 

では例年通り。

 

2019年に読んだ本

 

 

全32冊でした。あんまり記録していなかったので、覚えている限り、になります。

 
以下、一冊ずつ感想を3~5行程度で書いていきます。致命的ネタバレはしませんが、台詞抜き出して書いたりはしています。お気を付けください。

 

 

■『幽霊塔』|感想・レビュー - 読書メーター

読み初め。乱歩全集20巻の一冊。カリオストロの城のモデルにもなっているようで、宮崎駿が口絵を描いたバージョンもあるのだとか。(どこがカリオストロ?って感じだけど…。)乱歩はだらだら読めるのでとてもいい。
 
■去年を待ちながら(フィリップ・K・ディック
今後もディックの作品は1年に1冊ずつぐらいは読んでいくことにしよう、と固く心に誓いたくなった作品。エピローグの美しさがこれほど際立つ作品にはなかなか出会えないと思います。タイトルは「バック・トゥー・ザ・フューチャー」みたいな感じですが、本作は、ドラッグによる副作用でタイムスリップするお話。劣悪な妻を持った医師の夫は、悪意をもって自分を破滅に導こうとする美しく憎い妻を、果たしてどう処理してゆくのか。オートマティックタクシーの語る「人生」とは。人生に対する多様な向き合い方が表現されている、たいへんよい作品だと思います。2020年のディックはなにを読みましょうかね。
 
自負と偏見(オースティン)
 「高慢と偏見」の名でよく知られている名作。新潮文庫の新訳、とっても読みやすかったです。こういう心ときめく恋愛物語だとは思っていませんでした。「正しくて価値のある結婚」がしたくなる物語。これほど心ときめいたのはいつぶりだろう。あまりに良いので、友人らにもオススメし、映画もいくつか見て……とけっこうドハマりしました。
 
前々から友人にオススメいただいておりました。たしかに人のこころを撃ちぬく小説。なによりも、タイトルがよい。「砂糖菓子」の甘さと「弾丸」の激しさの対比が、ものすごく効いているすごく良いタイトルだと思います。美しい兄、いいですよね。

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青年のための読書クラブ桜庭一樹

「世界は空っぽか? 諸君、世界はほんとうに空っぽか?」と、未だに誰かに問いかけられているような気がします。お嬢様女子高のなかで、いまいち光り輝けない地味な生徒が集まる「読書クラブ」を中心として巻き起こる学園ミステリ。世界全般の「光」を信じたくなるような、愛情あふれる本です。

 

わたしたちが孤児だったころカズオ・イシグロ

中国とイギリスとが舞台の、アヘン戦争が絡んだ物語。ヒーロー扱いされている探偵、小ども向けのアニメみたいに簡単そうで夢見がちなクリア条件、そして残酷な真実。親が子を思う気持ち、というのは世界でいちばん純粋なんじゃないか、と思わされる物語。カズオ・イシグロは今のところどの本も全て素晴らしいです。

 

■完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込(若林正恭

オードリー若林さんのエッセイ。相方春日の、「どうしても幸せなんですけれど、それじゃ成功できませんか?」が心にくる。日本には、不幸でないと「成功」できない、という宗教を持っている人が一定数いて、わたしもその一人です。

 

■きみの世界に、青が鳴る(河野裕)(階段島シリーズ vol6 完結!)

階段島シリーズ、ついに完結!「いなくなれ、群青」から始まって、最終巻は青春ものらしく、「青」に帰ってまいりました。なくしてしまったもの、忘れがたいもの、そういうものがやっぱり好きなのかもしれません。信仰しているけれど離れることができて嬉しい、だとか、そういう、そのキャラクターしか持ちえないようなオリジナルな愛情、というものを描いている作品が好きです。階段島シリーズにおいて、愛とは信仰のことでした。

 

すべてがFになる森博嗣

かの有名な理系ミステリ。発行が古いので、多少古びた使い方に見えるようなコンピュータ用語もいくつかありつつ、まあ、楽しめました。こういう人気シリーズものをいくつか読んでいきたいと思います。

 

■私が大好きな小説家を殺すまで(斜線堂有紀

エモ系ライトノベルライト文芸、ぐらいの立ち位置でもあるかもしれません。
大好きな小説家が、小説を書けなくなる、文章を書かなくなる、綺麗な顔をつかって本を売るようになる、自分にだけは優しくしてくれたことを覚えている、恋のような家族愛のような、粘着する愛情。テープの剥がれ跡みたいな恋慕。終わり方のエモさが大変よい。「おれはずっと見てるからね」

 

■天気の子(新海誠

2019年で一番よい映画だったと思います。もちろん映画鑑賞後に読みました。副読本としてほんとうに素晴らしい。文字を読むことで、あの美しい色彩のアニメーションが頭のうえにぼんやり浮かんで放映されているようで、とてもユニークな読書体験を楽しめました。まず映画を見てから、ぜひお読みください。この物語に「愛にできることはまだあるかい」ってテーマソングを書いたアーティストは天才だ、と思います。

 

■しろいろの街の、その骨の体温の(村田沙耶香

コンビニ人間」で受けた衝撃と期待とを、まったく裏切らない面白さ。博物館で絶滅した生き物に関する奇妙な習性を学ぶような興味深さがある。成長の止まったベッドタウンで、成長期の女子がこじらせて起こす成長痛。反して、まっすぐまっすぐ育つ男。その二人の痛ましい恋愛。似た作品でいうと綿矢りさの「ひらいて」がやはり至高だけれど、本作は、モテる男子とモテない女子、という組み合わせがまた一味違って面白い。友人のオススメで読みました。

 

■僕たちの小指は数式でつながっている(桜町はる)

これもライトな理系ミステリ(恋愛もの)に入るのだと思います。理系のなかでも数学系。「博士の愛した数式」といい、数学系と記憶喪失系は相性がいいのだろうか(というより、短期記憶喪失系の設定は、「天才」に持たせないとそもそも話が成り立たないのかもしれませんが)。モンティ・ホール問題、友愛数、などなどの単語がちりばめられていて、理系の人(というか、数学系のパズル本とか好きだった人)なら懐かしく楽しめる恋愛小説でした。読みやすかったです。

 

■月の影 影の海(小野不由美)上下巻

ここから十二国記です。いやーとてもいい。何度読んでも新たな発見がありますが、やっぱりこの作品は、自分が可哀相でたまらない思春期の女の子・男の子に読んで欲しいなあ、と思うのでした。

 

■風の海 迷宮の岸(小野不由美)上下巻

一番、終始幸せな物語なのではないでしょうか。可愛らしくてたいへんよい。

 

■東の海神 西の滄海(小野不由美

王に出会うと、一にも二にもまず嬉しい、という麒麟の特性が印象深く描写されていて、無二の関係をえがいたうえにとっても面白い小説だと思います。いやー、十二国記はさすがに良すぎていっそ言うことがない。

 

■図南の翼(小野不由美

さいころから分からなくて、考え続けていた疑問に、まっすぐに、やさしく、現実の回答をくれた物語です。ちょうど主人公の女の子と同じ年のころに読んだと思います。

 

■華胥の幽夢(小野不由美

改めて読んでみると、新作を読むために必要な知識の詰まった短編集。かなり慎重に、ミステリで犯人あてをするときみたいな気持ちで、じっくりと読みました。

 

■黄昏の岸 曉の天(小野不由美)上下巻 ※再読

責任感の権化。なにか大きな崩壊が起こる、それを止めたいと思う、なぜそう思うのか? ――もしもその崩壊が本当に起こってしまったならば、それは自分のせいだと思うからだ。

 

そして最終巻。昨日までのわたしはこの作品のラストを知らないわたしで、明日からのわたしはこの作品を読み終わってしまったわたしなのだ、という虚ろで冷たい達成感を、ハリポタシリーズぶりに感じました。
 
屍鬼」とおなじく、様々な人の視点で多面的に掘り出されていく国の窮状。1巻ごとに泣いてしまいました。怒りを感じたり、泣き出すほどに嬉しかったり、主人公と一緒になにかを覚悟したり、こんな読書体験は、なかなかできるものではありません。
 
1・2巻は、読了記事も書きました。3・4巻も途中まで書いてあるんですが、ちょっと熱量が高すぎるので、もう少し寝かせておきます。

meeparticle.hatenablog.com

■『第2図書係補佐』|感想・レビュー - 読書メーター

書評(というか、本の推薦文)のまとめ、ということになってはいるけれど、実際的にはエッセイ・コラム集。この人の人生には、ひとつひとつのエピソードに本が寄り添っていたんだな、と分かる一冊。最後の対談で、「芸人になって笑いが仕事になってから、笑いには救われにくくなった。作家はぼくのあこがれです」とデビュー前の又吉直樹が言っているんだけど、芥川賞作家になってしまった今、本が依然としてかれのなにかの助けになっていますように。

 

■さよならの言い方なんて知らない(河野裕

クローズドゲームもの。不思議な箱庭のなかで、永遠に8月を繰り返し、ポイントを奪い合い、「スキル」を習得して殺しあう世界。死んだら、全部「元通り」――つまり、現世にどうやら帰れるらしい。こういう設定の話を好む自分が新鮮です。「生きろ、生きろ、生き延びろ」こういう哲学がある作品が好きです。階段島シリーズの河野さんの新作でした。

 

■さよならの言い方なんて知らない2(河野裕

2巻目。ゲームもの書きたくなる。「ルールとは外れたところで勝負する」人間って、やっぱりチート感あって格好いいですよねえ。十二国記が(長編は)終わってしまったので、本作が今のところ唯一の「新刊が出たら買う」シリーズものです。

 

ライ麦畑でつかまえてサリンジャー

反骨青春もの。反骨、といってもダークグラウンドな世界が描かれるわけでもなく。男子寮の日常、退学と家出、そして愛する妹と。永遠に読み継がれる理由がよくわかる名作でした。
 
 
9つの短編が詰まった短編集。そのなかでも、「エズミに捧ぐ」がとても素晴らしかった。サリンジャーの作品において男の狂気を癒すのはいつも少女で、仕事が激務でかなりつらかった春のころ、「ほんとうの眠気を感じる人間は、あらゆる機能が無傷のままの人間に戻る可能性を、かならず持っているからね」の言葉に本心から救われておりました。
 
 

近所のガキ大将に弱みを握られた主人公は、暗い世界に足を踏み入れそうになるが、すんでのところで「デミアン」が助けてくれて――。少しずつ大人になって、口調が変わっていく主人公。かれが追い求めるもの、デミアンが追い求めるもの、はたして少年だった彼は、いったいなにを手に入れたのか? さすがの面白さでした。

 

 

 

長々と失礼しました。では2019年度ベストテンを。

 

2019年時点のベストテン

 

「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ

自負と偏見」(オースティン)

「去年を待ちながら」(フィリップ・K・ディック

屍鬼」(小野不由美

「図南の翼」(小野不由美

ナイン・ストーリーズ(「エズミに捧ぐ」)」(サリンジャー

「ひらいて」(綿矢りさ

青年のための読書クラブ」(桜庭一樹

「少女不十分」(西尾維新

ハリーポッターシリーズ」(J・K・ローリング

 

 

どれほど素晴らしい作品でも、読んでいないと薄れていく感じがありますね。再読していかなくては。心が締め付けられる作品や、なにかを思い出したくて痛くなるような作品が好きです。

 

2020年は、ライトノベルや新書などの本を多めに読みたいと思います。

 

十二国記「白銀の墟 玄の月」1・2を読んで。

 

幸運なことにわたしの住む地域ではさしたる被害もなく、1日家に引きこもるだけですみました。ひとつひとつ、復習しながら読んだので、なかなか読み進められませんでしたが。さきほど、1・2巻読了しました。

 

 

 

以下、ネタバレも含む記事になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※以下、ネタバレありの記事。

 

みなさん、ご無事でしょうか?

 

かなりしんどかったですね。一ヶ月後の最終巻を、楽しみに、楽しみに、待っていようと思います。。。

 

 

 

 

さて、いくつか今までにファンの間で言われてきたことも含みながら、今回の物語について感想……というか、思ったことをもうつらつらと書いていこうと思います。わたし何時に眠れるのかしら。

 

 

目次です。

・伏線回収率がすごい

・歌シーンがしんどい

・高里くんの感情が読めない(&十二国記のテーマ)

穿った と 鳩の多さ

・人が多い

・さいごに(死んだのは誰だったのか?の恐ろしい謎に対抗するために)

 

 

 

 

 

・伏線回収率がすごい

 

十二国記シリーズには、すでにいくつか見つかっている明示的な伏線というやつがあります。

 

伏線=物語の巧さだとはまったく思わないのですが、すくなくともこの18年の間、いくつかの伏線をキーにして読者側が勝手に今後の展開を予想していたことは事実です。そういうお楽しみが過去作にはきちんと用意されていました。

 

1つ目が、「同じ姓のものは(少なくとも続けては)王に選ばれることはない」こと。そして、驍宗と阿選が同姓であること。

 

この設定については、初めて読んだ時からちょっと疑問に思っていました。続けて選ばれることがない(連続しない)というだけのことなのか、それとも一度だれかが王に選ばれた家は、その姓を縛りにして未来永劫にわたって王を輩出することがないのか。

 

もし後者だとするとーーこの世界において姓は死ぬまで変えられない・変わらないものと規定されている以上、物心ついた瞬間に「自分が王になれるか」「なれないか」がわかっている世界ってちょっとこわいな、と思ったりもしました。閉塞的だな、と。まあ、そもそも王になるということが一大事なことなんだろうから、そんな心配しないのかもしれませんが……。

 

ただ、原作の書き方的には「続けてはならない」なのかな、という気はしていました。でもその規定ってなんか変ではありますよね……。

 

もし王に一度選ばれた姓が永久欠番みたいに二度輩出されない決まりになっているとするのなら、明らかに頼りなさそうな人が王に選ばれたりするのにもちょっと納得がいきますね。これもまた妙な規定だなとは思うんですが。まるで民全体で王様の役目を順番にこなしているかのようで……。

そしてもし欠番型なのだとすると、同姓の阿選と驍宗がどれほどこの1回に強く賭けたかったかはわかります。

 

また、上記の設定は、多分そんなにこの世界の人々に知られていない規定のようです。景では偽王がたちましたが、これは前王の妹で、順当に考えれば姓は同じのはずですがそれを理由とした反論はなかったようでした。まあ、本当に姓が別である可能性もあるとは思うけれど、少なくともこの規定はそんなに有名なことではないんだと思います。(実際、今作でも知らないほうが当たり前な模様)

 

そして伏線2つ目が、「泰国の国氏を持つものにしか使えぬ宝重がある」こと。国氏を持つもの、というのはもちろん泰王・泰麒のことではあるものの、才国の宝重の例を見るに、ひょっとすると王の家族も使えるかもしれないこと。(「泰なんたら」という称号を持っていればよい?)

 

この宝重は名前も効果も全く明らかにされていないものの、おそらく瞬間移動系か意思伝達系か、なにかしら千里を超える力がある模様。そして、限られた人にしか使えない。つまり、角を失い、髪も黄色ではなく、なにもかもができなくなった模様の黒麒の泰麒が、唯一その身分を証明できる可能性のあるものです。

 

そして穿った見方をすると、驍宗と阿選が万が一にも兄弟だった場合、阿選は王兄もしくは王弟ということになり、才国の事例を見るに「泰国宝重」の正当な利用者になります。中身は似ているという設定はすでに提示されているし、この世界では、血縁者の外見が似ていなくても問題ない。

 

たぶん、この2つあたりをキーに、物語が進むのだろうなー、と予想していた人は多かったんじゃないでしょうか。少なくとも姓が同じという話はよく見たし、宝重は明らかな謎として前作に登場していたので、この2つを結びつけて考察した人は多かったのではないかと思われます。

 

 

さて、今作。

 

宝重は、驍宗様らしき人(と、とりあえず呼びますね…)が持っていたらしい体力回復系アイテムのみ。効果が複数あるのかもしれませんが、すくなくとも考察通りのいい感じの使い方では出てきませんでした。なにより前作のあの言い方だと、距離を超える系宝重は首都・鴻基にあったようなので、驍宗様の手元にはなさそう。ということは逆に、今泰麒の近くにあるということなので、ぜひ3巻ぐらいで使っていただきたい。

 

また、これ以外にも、短編集は泰の内情や問題を分析するための材料となっていることが多くて、さすが最終巻、これまでの物語が集結している感じを受けました。

 

たとえば采麟失道の話では、いったい王は何年国をほったらかしたら(いや、ほったらかしたわけではありませんが……)失道に陥るのか、という疑問が解決されていました。どうやら数十年はかかる模様。つまり、まだ6年の泰は、荒廃してはいるけれどそれだけを理由に失道が起こるほどじゃないんだろうなと。

 

また、才は王様の近くから次の王様が出た例でもあります。そういう場合って王気ってどうなるんだろう?となんとなく気になるのが読者側の気持ちでしたが、そのあたりの解説も今作でしっかり回収されていました。こうやってみると、才国短編はかなり重要な立ち位置のものだったんですね……。

 

 

 

・歌シーンがしんどい

 

最初のシーンから、「驍宗様なんだろうな」と思いながら読んでいました。

 

ああ、やっと出てきた、と思いながらも、なんだか身体は不調な様子。1回目は、ああ出てきた、と思って終わったのですが、2回目、3回目、となるごとに、そんなに他人に優しくしている暇があるならさっさと出てきてくれよ、という苛立った気持ちに。

 

少年へかける優しい声も、含み笑いも、それらを受けるべきは泰麒なのに、かける相手を間違っている、という憎しみにも似た気持ちが出てきました。感情をもっていかれている。こわい。

 

そして墓の前の少年のシーンになったときーー実は一度、良かった、と思いました。まさかここで驍宗が死ぬはずがないから、たぶんこれは驍宗じゃなかったんだろう、と。ほかに、静之など、同じ歌をうたう者も登場してきていたこともあり、これはたぶんまた違う部下のことだったんだろうな、と。

 

この物語、過去の虐殺の話はあれど、リアルタイムには特に誰も死なず、旅もわりと順行を守っていたので、まさかここで大きな爆弾を落としてくるとは思わず……いや、なんか甘めに進むなあ、とは思っていたんですよね……。

 

とはいえまだ白稚は落ちてござらぬ。と呪詛のようにつぶやきそれだけを心の支えにしていきたい。でも、どう解釈するにせよ謎だけが残る……宝重使って魂魄を抜いてなにかに転化したとか……いやだめか……。

 

あと正頼。みんな生きてるって言ってくれてるけれど、議会の場で泰麒の顔を見分けられるものを「令尹(罷免されていなければ正頼のこと)か、李斎か、六官長か」と話した後で地の文で「いずれも死んだか行方不明」って書いてあって、おっふ……ってなりました……。

 

・高里くんの感情が読めない

 

元々、「魔性の子」が単体作としてとても好きで、「泰麒」ももちろん好ましいものの、キャラクターとしては「高里要」がいちばん好きだったんですね。キャラ萌えというよりは、「高里要」が出ている作品が好きだった。かれの少し人間離れした感じ、清貧で、悪いことをしない、考えもしない、とそういうところ。そういう存在にたぶんなりたかった。というか大抵の中学生はそうなりたいんだと思うんですが……でも、大抵の人間は「広瀬」側で、わたしたちは人間の世界で今後も引き続き生きなくてはならない。

 

とはいえ、「なりたい」対象であるという意味では、高里くんの思考はそれほど読めないものではありませんでした。自分とシンクロしているというわけではもちろんなく、そんなふうに考えるのかー、という意外さはあるものの、常にやさしくてたおやかで、まさに麒麟という感じ。でも、今回はかなり違う。

 

じつはこの違和感は「風の海 迷宮の岸」のときから感じていて、でも何度か読んでやっとのみこめたような感じでした。どうして高里くんは、あんな非情なことがあったあと、病を治して、さっと「戴に帰ろう」と言えたのか。天の助力を待ってはならない、と強くいうのは、言ってることはかっこいいんですがなんとなくいままでの感じと違う気がして。あまりに強気すぎるというか。王を見失った麒麟はみんなあんなものなんだろうか、とか。

 

でも、何度も読み直しているうちに、すごく辛いことがあったからこそ、それでも帰ってこられたからこそ、いち早く国へ帰ろうと思わないとやっていられないのかもしれないな、と思うようになってきました。そういえば泰の麒麟は比較的豪気だという設定があったし。

 

そもそも、天の気脈とやらから引き離されている泰麒の寿命は疑問視されていて、寿命がきちんと延びたのかどうかもよくわからない。

ひょっとしたらこのまま王を見つけ出せても、角を失っているために死ぬのかもしれないという状況のなか、たしかに彼が今作で言う通り(そして前作で玉葉が示した通り)泰麒が死ぬのがいちばん早くかつ確実な解決方法なのかもしれない。(とはいえいま、麒麟の果実が成らぬ凶事もあるようですが……)

 

実際かれは一度日本でそれをしようとしている。でも、今回はしない。それはたぶん彼が麒麟であることを思い出したからで、戴の国民の象徴であることを忘れられない以上、戴を自殺させるようなことだけはできない。そしてそういえば彼は、6年もの間ずっと「帰りたい」と故国郷愁の心にとらわれていたわけで、ようやく戻れたのだから、はやく、とにかく、そういえば帰りたいんだった。かれは「帰れる」ひとなんだった、と、何度も読み直した結果思うようになりました。

 

十二国記は、エピソードゼロから含めて全編通して、「自分は自分で、自分の王になるしかない」という究極の自己責任の物語で、だからこそ強いし、心に響くし、ただの麒麟でいることを許さないーーただ、優しくて愛情を施すだけではなくて、やらなければならないことを成す、そしてその道中には辛いこともあるんだけれど、自分で責任を持つしかない、という強い強い責任感がベースにある作品です。苛烈なほどに。

 

それが今のところいちばん現れていたのが、「風の海 迷宮の岸」の終盤の李斎で、泰を救わなければならない理由を「泰が滅ぶのなら、それは私のせいだからです」と断じるシーンがそれだったと思う。いちばん印象深く残っているし、まさにそれだ、という感じがして、勝手に自分も泰を救いたいような気持ちになった。

 

十二国記は自立の話、つまりは王の物語だ、とは思うものの、今作の主人公の一角は麒麟である泰麒です。ただ、彼も今は角を失っているので、ひょっとしたら今は「王」と同じ理屈で動けていて、だから阿選を騙したりできるのかもしれません。

 

 

穿った と 鳩の多さ

 

穿ったって表現が多すぎて、もはやこれは「穿った見方で物語を楽しめ」という主上からのお達しなのかと思うほどでした。うそです。

 

鳩も多かったですね。白い鳥だから、向こうでは凶事の鳥なのかもしれません。首都・鴻基の鴻は鳥の意味なので、ちょっと関係あるのかもしれません。いやないかな……。

 

・人が多い

 

元々こうでしたっけ……たびたび説明を入れてはくれるものの、やっぱり人が多すぎて、もう、かなり復習しながらの進みになりました。今ならまだネタバレしているサイトはほぼないので、ファンサイトにアクセスすればネタバレなしの登場人物まとめリストなどを読むことができます。(ブログはすぐ更新されちゃうかもしれないので注意。)

 

特に今作においては、だれが敵で、だれが味方なのか?   だれが傀儡で、だれがまともなのか?   をある程度疑いながら読み進めてしまうところもあって、もはや推理小説のように登場人物それぞれの出身やアリバイなどをメモしていきたくなりました。。。

 

ーー

 

読みながら、そういえばこれが「最後の長編」なんだよな、となんとなく考え続けていました。さっそく来年短編集が出てくれるみたいですが……でも、この感じだと本編は泰を舞台にするのみで終わりそうだし、もう景麒や陽子、雁、範、奏、漣、恭などの長篇を読むことは、もうないんだよなあ、と思うと、せつなくてせつなくて。

 

そしてもし本当に驍宗が死んでいたんだとすると、ちょっとさすがに話がまとまらない気もしており……いや、でもほんとうに亡くなってしまったのかな……もし、探すのが数ヶ月遅れていたら、元気を取り戻していらっしゃったかもしれない、と思うともうほんとうにやるせないわけですが……。

 

一つだけ反論できるとすると、間際の言葉、台輔じゃなくて蒿里と呼んでいたらもう確定だった気はしています。もし驍宗ではなかったとしても、見目が似ているのは偶然ではないでしょうから、正頼が化けていたとか、そういう事情はありそうです。でもそうでもないのかなぁ……。

 

 

 

 

残る謎としては、どうして、阿選は驍宗を殺さないのか。

 

もしも兄弟(というか仙人だから子供や孫の可能性もありますが……)だとすれば、宝重を使うのに必要だったから、といえる。でも、どうしてその辺の村に捨て置いたのか。彼が絶対に復活できないとわかっていたとか?

 

とはいえ、作中の言葉に「人質をとる、脅す、籠絡するなどして、王が自ら玉座を投げ出せば失道にできる(が、今はそうではない)」とあるので、つまり逆をいうなら驍宗はこのどれでもない形式で戻れない、ということになる。そういえば、禅譲させることが可能なのも阿選だけ、という話もちょっとよくわからないのですが。。まるで二人がその気になれば連絡を取れるかのような物言いかな、と。

 

あと、最後に味方になってくれるとしたら、耶利の主人でしょうか。これもまだ謎です。

 

後半はおそらく、李斎と泰麒の合流、少年(回生)が首都へいく、まさにここぞというところでの耶利の主人の登場、などが起こると思われます。うーん。でもどうなるのかは全然予想がつかないですね。ここまできたら白雉が落ちているかどうか景に1回戻って確認してもいい気がするけれど、たぶんそうならないんだろうなーという気がしています。

 

 

 

そして、ここまで書いて思いましたが、回生くんって名前があまりに生まれ変わりしそうではないですか?!生まれ変わり!それならどうだ!!

 

……と思いましたが、そういうふうに命を扱うような作品じゃないな、と思いなおしました。でもちょっと珍しい名前ですよね。

 

11月を楽しみに待ちます。

 

 

 

本が好きって、素敵なことですね。本屋に並んでいるのを見るだけで嬉しくて、それを手にとって、レジに持っていく間も、賞状を受け取りにいくみたいにウキウキしていて。

 

ハリーポッターの外伝最終巻、「呪いの子」を読んだときに、あまりに面白くて、心がワクワクして、ひょっとしたらこんなに面白い読書はもう最後かもしれない、と思いました。いや、もう1回あるとしたら十二国記の最終巻だけかも、と。

 

面白い小説は、今までも明日からも、ずーっと刊行され続けてきたのでしょうけれども、これほどに冒険心をくすぐり、わくわくさせ、高揚させてくれるのは、やっぱり「小さいころに好きだった本」だけだなと思います。面白い本はきっとこれからもあるけれど、レジに本を差し出しながら、ちょっと泣きたくなるぐらい嬉しい気持ちになるのは、十二国記が最後です。

 

 

 

 

そういえば、一旦自分の気持ちを書き出したかったので、他の方の記事は読めていません。ので、また他の方のご感想など見て、追記や訂正をしたくなるかもしれません。

 

王様でも麒麟でもない我々ですが、至日までご無事で!

 

小説が書けない話

 

 

なんども言葉を重ねていることだから、いい加減自分のほうでも飽きてきてしまったのだけれど、”小説が書けない“。

 


今までは、それを公の場で口にしてしまうことがなんとなく怖くて、ひそひそと独り言のようにみなされる場所でしかこの弱音を吐いてこなかった。pplogという独り言ブログ(スナップチャットのようにすぐに記事が消える)とか、手帳や日記のなかとか、友人に宛てたアナログの手紙とか、ほとんどグレーに包まれたやさしく曖昧な場所でしか。


書けない、といい始めてからおおよそ二年が経過している。スランプと単純に呼んで済ませられる期間ではないし、なにより終わりが見えない。数ヶ月前に書いた文章や、去年数本書いた短編を読めば、なんとなく自分自身の「文章を書く力」みたいなものを信じられそうになる瞬間もあるのに、100点ではないという理由だけで自分の能力全てを闇の穴にでも捨てて「文章を書くのはもうやめます」なんて誰も聞いていないだろうに宣言をしたくなる。


最近ではほぼ“書けない”ということだけを書いた手紙を友人に送りつけてしまったりして、そのような挙動を客観視するに、いい加減なにかしらのブレイクスルーが必要だと納得するに至った。もう書けないのではないか、という恐れやifの言葉では生ぬるい。おそらくこのままではわたしは永遠に書けない。しかも、書けないな、書けないな、と呟きながら二年も経っていて、にもかかわらず諦めようという気持ちのほうも豆粒のように小さいままさして大きくならない。つまり、諦めという終わりもどうやら用意されていないらしい、と気づいたことで、状況の打破に向けて、具合のいい昼下がりにでも一度思案しようと決意した。

 


やりなおしにあたって、さきほど一本の記事を読んだ。どういう経緯や背景かは知らないが、小説講座かなにかのログ記事だ。小説は自由でいい、と書かれていた。


自由、何も気にせず、自由でいいんです、と演説するようにマイクを持って写真に映るその人を、決して信じたわけではなかった。ただ、この言葉がわたしに刺さるということは、あるいは、わたしにとって「自由」がそれなりの価値を持つことなのだろうと自らのなかでの再発見が起こった。


とにかく長期的な視点においてわたし自身が満足することが大切だ。短期的な視点において納得したり満足したりしないことは、自分がいちばん知っている。仕事でも趣味でもそうだった。やっている最中は、その「作業」自体がたのしい、それだけでいい。納得や満足は、その作業を「仕事」として振り返ったとき、つまり全てが過去になってしまったあとでようやく訪れる。だから、いま、目の前の文章に納得できなくても問題ない。満足を感じられなくても仕方ない。

 

とにかく文章というものから離れてしまうことに第一の問題がある。第二、第三の問題もあるのかというと、もちろんあって、仕事のほうが忙しくてなかなか筆を取れないこと、腰痛や目の疲労などがたまってそもそも身体を動かすのがわりとしんどいこと、などがそれにあたる。まさかこんな物理的な問題に二十代ですでにぶちあたるとは思っていなかった。でも、別に病人というわけではないし、仕事人であるときの自分の勤務態度を見るに、長期の物書きや作業にはそれほど苦労しないほうだ。長時間労働になれている、というただそれだけのことだけれど。


仕事が忙しいのは、もう勤め人であるほうのわたしがなんとかするしかない。徐々に状況は改善されている。あとは人生のなかでなにをいちばん大切なものと位置付けるか、という話で、これまで「チーム」を大切にしてきた分を、「小説」に変更するだけでいい。


そういえば、会社においては結局、頼られたり誰かが困っていたりするとつい自分のほうで手を出してやってしまうことが多かった。どこまでもサポータータイプなんだろう、と思うので、擬似的にその状況を小説の執筆作業においても作り出せればよいのかもしれない。アイデアはまだない。


まずは、自分の人生の優先順位をひっくり返すこと。そういえば「天気の子」でも須賀さんが言っていた。歳をとると優先順位の入れ替えが難しいと。いまのうちにやっておこう。


では優先順位第1位が「小説を書くこと」である人間はどのように毎日を過ごすべきか?  を考えてみる。


まずは、小説を読むこと。一見「書く」と正反対の行動だが、書きたいと思うようになるためにも、また実際にそれなりの小説を書くためにも、小説をたくさん読んで、他人の文章を見学することは大切だ。


つぎに、書くこと。とはいえとにかく「書け書け」と思っても、明日からとつぜん書き始めるわけもない。これが最大の難関ではあるのだが、「読んでいれば書く気になるはず」という仮設が多少なりとも背中を押してくれることを祈る。そのうえで、いくつか目標とかを設定して、(ちゃんとやれる自信がぜんぜんないけれど)ブログとかで報告して、なんとか推進力を得たい。


結局私たちは、「書くぞ」と決意したら、あとはほんとうに書くしかない。それ以上に細分化した目標を立てようと何度か努力はしてみたけれど、どれも失策に終わっている。とはいえ昨日と何一つ状況を変えないままに明日がきっと転機になると信じるなんて莫迦げている。

 

ということで、時間制で自分に制限を持たせることにした。あと、家はやっぱりダメだ。どこかの喫茶店で二時間こもる、物書きしかしないことにする、その繰り返しでようやく世界が変えられるかもしれないーーと信じる。


9月16日は、とりあえず二時間ほど字を書いた。大した量ではなかったし、大した作品でもなかったけれど、でも書けた。なにもできないと思うときには15分の即興小説を4回ぐらいやればいい。平日の二時間はあくまでも一区切りの目標として、ノルマとは考えないようにしようと思う。できるかな。なんとかなりますように。

 

 

「小説が書けない」と言い始めたころ、このできない気持ちをなんとか活かそうと思ってキス・ディオールシリーズのストアを作った。かれは、周囲の誰がなんと言おうと「自分はなにもなしえない」と信じている少年で、かれの立ち直りを書くことができれば、自分もトンネルの外にでることがかなうのではないかと思っていた。

 

いい加減にこの話ももう終わりにして、もうすこし景気のいいテーマにうつりたい。

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

 

 

わたしは「最初の一行だけ読めば小説の出来は分かる。もっと言えば、タイトルだけでも分かる」という文に傷ついていて、それは自分の名づけのセンスがあまりに壊滅的だからでもあるのですが……、この小説は、本棚のなかにしまわれている状態の背をみるだけで、「面白い」って直観できる題名だよなあ、と深くおもいます。*1

 

※以下、すべてネタバレありの感想記事ですが、もし私だったら、このネタバレを読んでから本編を読んでも別に大丈夫かな、と思います。(主観です)(結構短く読みやすいので、すぐ手に入るならさくっと読めますよ)※

 

 

 

 

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 

 

「実弾」と「砂糖菓子」。

 

 

 

 

不幸だと思っていた自分の境遇が、まるでなんでもなくて、

お菓子の家で過ごしていたのは自分のほうだったと知る。

むしろ、兄を神のままに「飼育」して、優雅に楽しんでいたのは自分のほうだった、と。

 

十四歳の子どもが持つ「閉塞感」は、ある種特権的なものだとおもう。

 

 

「傍観者と飼育者のロール」

どうして十四歳の子どもってのは、傍観者にあこがれるものなんでしょう。まだまだ世界は自分の手の中にある小学生と違って、自分の道を決めて進み始める高校生と違って、中学生はそのはざまにいて、受験のことに多少悩んだりはするけれど、まだまだ「本当の選択」はすこし先に用意されている、いわば階段の踊り場にいられる3年間。

 

そんななか、主人公のなぎさはどうあっても「飼育者」として描かれている。

 

「美しい生き物と飼育者」
成長期にある少年少女にとってーーいや、いや、ぜんぜんそれだけに限らないのかもしれませんが、とにかく人間にとって、他人を養育したり面倒をみてやっているという感覚は、なかなか気持ちがいいものです。そして彼女は美しい兄を飼っている。

兄は浪費家で、美しくて、優しくて、賢くみえる。価値のある人間に見える。そういう人間の飼育者になれるのは、自分自身まで神になったようで気持ちがいい。そしてこの愛は愚かなことかもしれないけれど、そう珍しいことでもありません。事実、わたしはこの「神」が出てくるシーンになってようやく、この小説はひょっとしたら読む価値のある小説かもしれないぞ、と思い始めました。美しい男がどうにもこうにも好きなんです。なんなんでしょうね。


「そして立ち現れる現実」

物語の後半、急展開に、
砂糖菓子の世界が解けて、グロテスクな現実があらわになる。
大切にしていたあめだま(兄)はわたあめが飛んでくみたいに神性を失い、

なぎさの口のなかからきえて、ほのかに現実のかおりがせまっている。

 
飼育物をうしなったなぎさは、もはやなにかを見下ろすだけではなくて、顔をあげて生きていかなくてはならなくなる。そんなにあからさまでなくたっていいのに、と思うほど唐突にしっかりと堅実にただしく間違いようもなく恐ろしいまでに、現実は、少女の前に姿を現した。

 
 



そしてこの小説を衝撃をもって受け止めることができず、ただ文字をなんとか追いかけて読み*2、最後の結末にも、感じるところがありながらも、ただ静かに本を閉じていられる、鈍くなった自分の心の変化、劣化、あるいは進化を読み取ることができたのが、いちばんの収穫であるように思います。中学生のみなさん、はやくこういう小説をたくさん読んでください。

 

 

 

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*1:やっぱり、やっぱり、題名が良い。題名のおかげでおおきく成長した作品はほかにも結構あると思っていて、たとえば「限りなく透明に近いブルー」なんかは、泥のうえにある上澄みをあつかったような作品だという感じがあるけれど、やっぱりそれって、題名が「限りなく透明に近いブルー」だからなんですよね。そうでなかったら、ただの泥(だったとしても、凝り固まって見ごたえのある美しい泥なんだけど)だと感じてしまうような気がします。

*2:ストックホルム症候群」だとか「サイコパス判定のクイズ」だとか、あまりにあからさまな、と思ったけれど、むかしはこういう小説って多かったような気がする。ノウハウ小説とか、ネット小説とかが増えたからか、こういうことを「読者が知らない体で」書かれた小説ってもはや珍しくなってしまったのかなあ、と。

感想記事「Hangman's knot」

 

 

幸せが目にみえたとして、それはぼんやりとしたひかりや暖かな赤色を纏っていて、重さはなさそう。たとえるなら綿菓子のように。

 

その「幸福」を持続させようとおもうとき、風船をつかんで離さないみたいに、わたあめを永遠に作り続けるみたいに、軽くて優しいものを保ち続けていく、という印象がありますが、本作における「幸福」は重たくて、きっと水分を含んだ布袋みたいにずっしりとしていて、とても抱え上げることはできず、そのへんにつるしておくしかない、その幸せの死体を、いったいどう取り扱えばいいのか。

 

 - 以下、既読の方むけの記事になります。

本編はなんとWeb上で読めてしまいますので、みなさまぜひ。

misumieriza.wixsite.com

 

 

 

 

 -以下、既読者向け。

 

やはり、能代の話をしようと思います。

 

どんな人間にも父親と母親がいて、その両親から半分ずつもらって「自分」が作られています。しかし能代の場合、とある女の手によってある種「母親」は不在であり、その徹底した排除の結果、かれのベースはほとんど父親で塗り固められてしまいました。14歳のあの時点までは。

 

精巧なレプリカ、あるいは後続品であるところのかれは、
型番までふくめてまったく同じ「オリジナル」を有しています。

 

当然、その「秘密」が今作最大の魅力であるわけです。

一癖も二癖もある、狂気を宿して暴力的な部分を持つキャラクターたち、煙に包まれたような世界。出生の秘密、名前の秘密、懐かしい呼び声、謎かけのような手記。どれひとつとっても好みの要素。

その世界で、オリジナルとレプリカが出会う。

 

この小説は、母親の死の原因を探るミステリーでありながら、少々猟奇的な奇怪さも持ち、アイデンティティ確立のための成長譚でもあって、そして、ふかい愛の物語でした。



結木能代は、最初の14年間を一人の男をベースに作られて、その後9年間を自分が複製品であることを知らずに過ごします。そんななかで唯一かれがかれ自身の「要素」として認識していたのが、その衝動的な絞殺による殺人願望であったというのは、あまりにも運命的ではないでしょうか。

考えようによっては結木真希奈の自身の『絞殺』だって、運命的で衝動的であり、本人以外のだれにも変えられない彼女自身の「要素」だったわけです。組み合わせれば、結木能代は、父親のベースに、母親の絞殺衝動、その2つをかれ自身の骨組みとして、23年をかけて、ようやく両親のかけあわせであるところの「自己」を獲得したのだといえます。

「結木家短編集」においてはさらに、その確立がはっきりと見て取れます。結木は父親とも母親とも異なる自己を獲得して、そして前に進んでいる。反対に九院は、未来よりも過去をなんども大切になぞるタイプの男にも思えてしまうのですが、その対称性もどこか美しくおもえます。


 


個人的に、よい小説というものは、「愛情というのは、」に続く言葉が作中に明瞭に美しく表現されているものだと思っています。

 



Hangman's knotにおいて ”愛情というのは、”
聞こえなくても遠くから名前を呼びつづけること、
届かなくても交換日記を書き続けること、
そして、今日も明日も永遠に続くもの。

 

2018年に読んだ本のはなし

 

2018年に読んだ本のはなし。

 

 

2018年の「最高の十冊」を決めることには意義がある。毎年スクラップするように「最高の十冊」を決めていくことには意義がある。スタンプを押すみたいに毎年の好みを記録しておくことで、後から振り返ったときに、きっとその遷移になにかを見つけることができるはずだと信じている。

よかった本について語る前に、2018年に読んだ本をすべて書いておこうと思う。

 

2018年に読んだ本

 

 ※商業書籍として読んだ本と、オーディオブックとして聴いた本のみ記載しています。(青空文庫や同人誌は記憶がおぼろげすぎるのと、記載されたくないという方もいらっしゃるかもしれませんので省きました)

※多読よりは特定の本を何度も読むタイプなのでここに書いていない読書分の方が多いのですが、「初読」もしくは「10年ぶりに読んだ」本を記載しています。

 

28冊でした。(他にも漏れがありそうです)

 

良かった本


「わたしを離さないで」「死に至る病」は、人生で読んだ本のベストテンに入るほどの素晴らしい本でした。

また、階段島シリーズとスカイ・クロラシリーズも大変美しく感銘的でした。

図書館戦争も、いままで読んだことがありませんでしたが、たいへんよかったです。一冊切りしているように見えておりますが、ぜひ2019年は続き読みたいなあと。。

あとはDear Enemyもなかなかよかった。十角館の殺人も、序盤とくにワクワクして面白かったです。

アルジャーノンに花束をは、十数年ぶりの再読でしたが、子どものときには分からなかったことも感じられるようになっていて、とても味わい深い一冊でした。

 

2018年時点のベストテン

 

魔性の子
屍鬼
「わたしを離さないで」
アンドロイドは電気羊の夢を見るか
「こころ」
「ひらいて」
「孤島の鬼」
「若きウェルテルの悩み」
「月と六ペンス」
死に至る病

 

色々と悩みましたが、こうなる気がします。

 

 2019年に読んだ本の中からは「わたしを離さないで」と「死に至る病」とが入りました。10本の指の中に入るような本と、これからも毎年出会い続けていられたら、と思います。

 

 

2019年は、古典や名作、もしくは商業的に成功している現代作家の本などを読みたいなと思っています。