@particle30

惑星イオはどこにある

睡蓮の池

初めてクロード・モネの「睡蓮の池」を見たとき、わたしのむねは締め付けられ、ぎゅっと水をふくんだスポンジが絞られるみたいにして、なにかが垂れ落ちるような、不思議な感覚を味わった。心臓からあふれだしたなにかはわたしの胃や腸のあたりを濡らしているようだった。ともかくも不思議な、内臓がどろどろに溶けそうなほど、と書くとあたかもグロテスクだけれど、とかくもわたしはその絵に懐かしさを感じて、見たことのないこの庭にどうしてか帰りたいと願い、どうしようもなくさみしくなった。

 

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名画を見たときの感情体験はいくつかに区分わけができると思っている。

 

ああ、これがかの、と教科書のなかの記憶を引っ張り出して、自分のなかのひとつの「良質な」経験としてしまわれるもの。あるいは、ふと足を止め、とうていそこから離れられず、まるで恋人を残してこの地を去らなくてはならないような、不思議な感傷をおさえきれないもの。もうひとつは、一見すると目はひくもののたいしたことはないのだが、その絵の前に立っているうちに、絵が襲ってくるような感じを受けて、強い衝撃を脳髄に残すもの。いつかもう一度会えますようにと、願いをこめずにはいられないようなもの。

 

睡蓮はそのすべてを横断した体験をよこしてくるものだった。

 

まず遠くからでも、ああ、あれがかの、と分かる。画面いっぱいに描かれた美しい庭。遠目でもその美しさが見落されることはない。楽しみに思いながら、ほかの絵をたどって、次々とバトンがわたされ、ついに「睡蓮の池」の順番がくる。わたしはとつぜん、ここ数枚の絵にかんする記憶を失う。どうしてもそこから離れられず、そなえつけの椅子に座り、しばらく連綿とつづく睡蓮の葉たちと見つめあっている。絵のなかの風景はどこか動き出すような気配があって、わたしが瞬きする一瞬だけをねらって風を吹かせているのではないかと、そんな気持ちにさせられる。これ以上ないほど自由が過ぎて、かえってどこか窮屈な感じさえある。この庭園のなかに一度入ったら、もう二度と出ることはできないのではないか。どこかの隔離された、静謐なサナトリウムのなか。あるいは夢のなか。二度と戻ることはできない世界の果ての風景。

 

この庭はきっと、春は当然、夏もうるわしく、秋は静かにきれいで、冬はいっそう美しいのだろう。

 

モネについてわたしは詳しくなかった。睡蓮をやけに多く描いた画家であり、生前に名声を得た印象派の巨匠で、顔のない女性の絵をやわらかく描いたひと。その程度の認識しかなかった。今までもいくつか作品を見たことはあったはずだが、これほどさびしくはさせられなかった。

 

この絵を描いた人のことを、ほとんど知らないのにもかかわらず、わたしはかれを哀れに思った。かれはたぶん、この庭の外には興味がなかったんじゃないか、と思った。執念とも呼ぶべき集中力がかれを絵のなかだけに引き込み、つつむ緑の香り、やさしい水音と立ち上る特徴的な草いきれ、そのすべてが彼を呼び続け、ついに帰ってくることはできなかった。彼が描いているのはその諦念にも似た、このやわらかい庭以外の世界をすべて切り捨ててしまいたいという決別のこころ、盲目的な庭への愛情、ただそれだけで、睡蓮や草たちは、彼の人生そのものであり、だからわたしはたぶんこんなにも寂しくなる。

 

やがて緑はわたしを襲いだして、わたしはどうしてもこの絵の前から離れられなくなる。撮影可能の美術館だった。ほかの絵の前ではカメラを出そうという気持ちになれなかったが、この絵だけはわたしも撮った。もちろん、当然、この池の魅力を少しも持ち帰ることなんてできないと理解していた。

 

コンサートに行く理由、美術館に行ってわざわざ本物をこの目で見たいと思う理由、このふたつは重なっていて、つまりわたしは、「ほんもの」を記憶に宿しておきたいのだと思う。一度「生」で聞いた歌声は、自室でCDをかけているときにも被って聞こえてきて、いままでは多少いいじゃないかと思う程度だった楽曲が、生で聞いてしまったら最後、大好きで一秒だって気も抜けない楽曲へ転変してしまった経験をわたしは持っている。絵はもっと分かりやすくて、教科書のなか、インターネットの画像検索、そんなもので見た絵たちは、どこかよそよそしく、魅力はそぎおとされて、ただ「かたち」だけがなんとなく分かるだけのものになってしまっている。しかしほんものを前にすると、絵というのは生きているみたいに動くのだ。そしていちど瞳のなかに「生」を宿せば、家に帰って、とんでもなくひどい出来のポストカードを眺めているときも、それなりに絵は鼓動を打つ。

 

なにかに意味を与えてしまうのが芸術の条件なのかもしれないと思うことがあって、事実わたしはあの美しい睡蓮の庭に似た風景を見るたびに、うつくしいものへの憧れのこころ、どうしようにも手に入らない平穏への憧憬、のびのびと小麦の焼きたてのパンだけをたべて川辺にしろのワンピースで寝転がりたい気持ち、そんな、とっくに捨てたはずの、どこか懐かしいその気持ちが、わたしを襲ってきて、しばらく帰ってこられなくなる。定時の鐘が鳴るすこし前に、目の前いっぱいのガラスの向こうのビル郡が、とおく夕暮れのなかに落ちて行って、青や紫や、時には緑がかった空が、薄くのびた雲だけをお供に色を変えていくのがすきだ。やがてすべての色が去って、黒塗りのやけに反射するガラスだけがのこり、外にはビルのうえについている赤い点滅灯しか見えなくなったころ、ようやくわたしは現実に帰ってこれる。すとんと、とつぜん目が覚めて指定の椅子の上に戻されるみたいに。

 

小説もそういうものでありたいと思っていて、絵や音楽が、なんとなく一瞬の情景やふわりとした感情をとらえることに向いているなら、小説は経験を消化することに向いていると感じる。わたしがあの睡蓮を見てから、どこかにあるかもしれないモネの庭のうつくしい情景を信じ、世界の美しさを信じることの盲目の美しさを愛していられるように、小説は、人々のうしろ暗い経験や口にするとつまらなくなるこじれた気持ちやそれでもこびりつく愛情やとれないひずみのようなもの、そんなものに意味を与えてしまうことが、たぶん出来ると、これだけはずっと信じている。

 

毎日夜がくるたびに、わたしは美しい絵画に幕の下りたのをさびしくかんじ、ふたたび日が上がるのを待っている。夜の暗さが一番好きだった子どもが。夜が現実で、朝は絶望だけれど、昼はすこしやさしくて、夕暮れがいちばんうつくしい。睡蓮が好きです。