@particle30

惑星イオはどこにある

20220308

自死に関する話が含まれています。

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 2022年3月8日、久しぶりに声をあげて泣いた。子供みたいに泣きじゃくった。

 

 時は遡って、去年の私の誕生日のこと、敬愛していた歌手・声優が死んだ。朝起きてすぐ、旅館のふかふかの布団のなかで、時間を確認するだけのつもりでスマートフォンの通知画面を一目見て、私は彼女が死んだことを知った。とても信じられなかったので、逃避のためにもう一度眠った。再び目を覚ました時、すぐにスマートフォンを開く気にはなれなかった。本当だと分かり切っていることをもう一度自分に刻み込みたくはなかった。努めて冷静でいようとしたし、誕生日ということで色々予定もあったので、その日のわたしに出来うる限りの穏やかさをもって一日を過ごした。帰りのロマンスカーの中で、おめでとうのメッセージを一通り読み終えて、友人がわたしのために作ってくれた誕生日専用のウェブサイトのメッセージ欄も一通り読み終えた頃、急激な寂しさに襲われた。

 

 その日のわたしには、二つの不幸があった。ひとつ目はその日の朝彼女が死んだこと、ふたつ目はその前々日に友人がガンの診断を受けていたことだった。死がなんだか突然わたしの周囲を覆い出してきたような感覚に襲われた。だがわたしは生きているし、そもそもガンの友人だって死なない。ガンになっただけだ。治療は必要だし、数カ月仕事を休まなければならないらしいが、すぐ差し迫って一年以内に死ぬとかそういうことではない。でも、わたしも友人と一緒に勝手に疲れていた。とにかく酷い心労があったけれど、このどちらの話についても旅行の同行人である恋人には伝えていなかった。

 

「実はさあ」とわたしはロマンスカーの赤い座席に埋もれながら言った。「友達がガンになってしまったんだ」

 

 一緒に悲しんでほしかったんだろうか、どうして言ってしまったのか分からなかったけど、ある程度消化してから言うべきことだという感覚はあった。恋人は、ガンのステージは何なんだとか、どのガンなんだとか、どこで治療を受けるつもりなのかとか、そういうことを一通り質問してきた。わたしは途中、心のなかで苦笑いした。まさに友人が言っていたのだ、「みんな、一番最初にステージを聞いてくる」と。その言葉を聞いた時点でわたしは友人にステージを尋ねていなかったし、それ以後も(「みんなに聞かれる」と言われてしまってはなおさらに)聞けなかった。

 

 結局、その日の朝に死んだ彼女のことについては話題にもあげなかった。ある程度消化してから言うべきことだという感覚が、またしてもあったし、そもそも「死」という不可逆の現象の話をするには(病だってある種不可逆ではあるかもしれないが、それでもここに違いを見出してしまう)、わたしののほうの覚悟がどうも足りない気がした。誰とも哀しみを分かち合いたくなかった。少なくとも、彼女のことをふかく愛している人以外に彼女の話をしたくなかった。今わたしがどんな気持ちになっているのか、誰にも知られたくなかった。わたしはわたしの心の心配をされるのが嫌だった。

 

 あれから数カ月が経った。友人のガンの治療のほうはひと段落した。わたしが、死んだ歌手のファンであり彼女を大変好ましく思っていることは、周囲には伝えていなかったので、誰からも心配のメッセージなど届かなかった。でも、もし知られていたらいくつか届いただろうと思う。これにはかなり助かった。「自分にとって大切なもの」は、大切である分、他者に開示などしないほうがよいのではないか、とそんなふうに思い始めていた。真に哀しんでいるとき、他人とその悲しみを分かちあいたいと思えない。誰とも慰め合いたくない。だから、「この小説が好き」とか「この絵が好き」とかは言っていいけれど、「この人が好き」だとは(その人が今この世界に生きているのなら)、言ってはならない。なんていうか、これはわたしの持つ弱みだから。

 

 そんなことを考えながら暮らしているうちに、2022年3月8日が来た。それまで、Youtubeで死んだ歌手の歌を聞いたり、お芝居の動画をもう一度見たりすることもあったけれど、概ね彼女の情報には(とくに、死後に発せられた「彼女に関する情報」には)積極的には接することなく過ごしてきた。でもその日の作業中、とあるラジオを聞いていたら、パーソナリティーが、「実はね、映画の***を今さら見たんですよ」と言い始めた。死んだ歌手・声優の、出世作といっていい作品だった。「とても面白かった」と言いながら、パーソナリティーは次のラジオナンバーに自身の曲「Life is good」を掛けた。パーソナリティーと死んだ歌手の二人の間にはそれなりに親交があり、「姉妹のような」という言葉を使ってお互いの関係性を説明しているのをインタビュー等で何度か見たことがあった。

 

"Life is good" の 歌詞のなかで、一番すきなところを抜粋する。

 

The world is ours
No one could ever take it from us

You know life is good
We got each other
And that's all we need

 

 ほんとにバカみたいだと思いながら、「Life is good」を聞いて泣きじゃくった。本当に人生って素晴らしいだろうか、わたしはそれを友人らに保証することができるだろうか。これから生まれてくる命に向かってそう語り掛けることができるだろうか。希望と約束ばかりを追い求めて、「that's all we need」(これで欲しいものは全部手に入れた)って歌うことができるだろうか。いや、毎日そうすることはできないだろう。でもそういうふうに世界を信じられる日は生きていればいつかある。すぐに過ぎ去って、また暗黒の夜が来るかもしれないけれど、「素晴らしい日」は永遠に来ないわけじゃない。わたしにだってあった。穏やかで幸福な夜があった。でもだからなんだっていうんだろう、「Life is good」って言えるだろうか? 言いたいけれど、ほんとうにわたしはそういうふうに言えるだろうか。でも言いたかった。

 

 あんなに寒い日に死んでしまったあなたのことが、やはり辛くて辛くてなりません。

 


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 読者のことだけを考えるなら、こんなに長い文章を書く必要はほんとうはなかった。
坂本真綾が、ラジオで『実は初めてアナ雪見た。ほんとに面白いね』って言った直後に『Life is good』流してて号泣しちゃった」ってTwitterで言えばいいだけだった。適当にみんなわたしの気持ちを想像してくれただろう。一文で済ませたほうが、より多くの人に、より正しく、わたしの感情を伝えることができたような気がする。ただ、その一文だけでは、わたしの覚悟や感情やかけた時間に見合わなかった。それだけで済ませた場合、自分がものすごく身勝手に感情を消化しているだけのような気がしてしまって、自分で自分を受け入れられなくなるような気がした。

 

 というわけで。

 ほんとうは一文だけでいいところを、長々と書いて、あなたに読んでもらいたいと思いました。

 今日はここまでにしておきます。自分に起きたことを、自分にとって固有のままで、とにかく書くことができるわたしであり続けられますように。

 

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某所に置いていた文章を引っ張り出してきました。