@particle30

惑星イオはどこにある

20220806

 

1日目:毎日ブログでも書きます。

 

今日からしばらく夏休みなので、なにか毎日ひとつずつでも有意義なことができればいいなと思っています。そういう決断をしたことがある人自体って多いと思うんですが、実際にやりおおせたことがある人ってどのぐらいいますか? わたしは自分自身が成し遂げた経験があるのかないのかすらよく分からず、でも成功体験があったらきっと覚えていそうな気もするので、まあたぶん、ないんでしょうね。

 

 

です・ますだと書くのがたいへんなので、ここで、だ・であるに変更します。

 

 

昨日、「メルロ=ポンティ入門」という本を読んだ。職場近くの図書館で借りたその本は、昨日が貸し出し期限日だった。読み終えるまで帰らないぞと強い思いでオフィス下の硬いベンチに座ったが、あまりの硬さにニ十分もしないうちに尻が悲鳴をあげ、これならオフィスのボックス席でこっそり読書でもしておくんだったと後悔した。とはいえお腹もすいていたしオフィスに戻るのもなんだなあと思ったので、冷たいベンチとおさらばして喫茶店に入りトーストをほおばりながら半分ほど残った本の続きにとりかかったが、なにせ哲学の入門書なのでねむくて仕方ない。でも前々から読み終えるぞと決めていた本なので、残り三割というところでギブアップするのももったいない気がして、睡魔と闘いながら本を読んだ。なんだか瞬間的、短期的には辛いことをしているような感じに見えてはしまうんだけれど、一応読書をするのは好きだ。めちゃくちゃ眠いと思いながらなんとか読み終えた本を返却ポストに入れた時には充実感があったが、なにせ眠かったので本の内容は正直なところ3分の1も理解できていなかった。

 

哲学書に関しては、ちくま新書のことをかなり信じている。哲学者ひとりひとりの性格まで表現された、親しみやすく分かりやすい入門書をちくま新書は結構たくさん出してくれている気がしていて、レーベル全体に対するぼんやりとした信頼感がある。メルロ=ポンティのことについては正直まったく理解が深まらなかったが、本のなかで出てきた著者本人の人生のエピソードはかなり心に残っていた。エッセイ風に書かれた文章もこなれていて、この人のブログがあったら是非読みたいと思い、著者名で検索した。御年七十歳だった。さすがにブログはないかなあと思って検索したら、HTMLで作られたウェブサイトを発見した。「HTMLで作られた」って、いやそれ当たり前じゃんって話かもしれないけど、本当に手で手作りでタグ打ちしたって感じのサイトだったんです。日記コーナーのようなものもあったけど、それも本ブログみたいなありもののサービスを使ったものじゃなくて、手作りだった。ブログは元々「ウェブログ」の略なんだけど、その日記もまさにウェブ上に残された記録って感じで、手作りのホームページ文化を思い出して懐かしくなったりした。

「主要業績」の欄は5年前の日付で止まっていて、多分65歳で定年退職したんだろうな、という感じがした。ガンになったり、本を出したり、色んなことがあったらしい。著者の他の本を見ると、闘病の際の思いを込めたであろう「死の哲学」に関する本もあった。よりエッセイ的な趣がありそうだと思って是非読みたくなった。

 

 

……とある作品を読んだときに、その作者に好意が向かってしまうということ。小説等だとよくあることのような気もするけれど、哲学者にとって「著者への好意」はどのような受け止められ方をするのだろう。

 

この書き手さん好きだな、と思える人が何人かいる。その人たちは小説家でもエッセイストでもなくて、だから「作品」として文章を世に出しているわけではない。でもその人の書く文章があまりに心地良くて、より「その人らしさ」が見えるような題材を選んだ文章は他にないだろうか、と調べてしまう。本編とは違う部分について興味をもたれているということになるのだから、やはり不本意かもしれない。

 

「小説家」ではないが好きな書き手、といえば一番最初にあがるのは翻訳家の金原瑞人で、彼の訳したサマセット・モームの「月と六ペンス」を初めて読んだ時、サマセット・モームが天才であることは明らかだが、その天才性をここまで日本語に美しく写像してみせた翻訳家に宿った才能のほうもいかほどのものだろうと、グーグル検索でモームの名前よりも先に「金原瑞人」と検索した。今まで意識していなかっただけで、わたしの好きな作品をいくつも訳している人だった。

 

幸運にも金原瑞人はブログを頻繁に更新しているしエッセイ本も出している。たまにネット講義もやってくれるし、イベントにも登壇するから直接話を聞ける機会もある。わたしが翻訳に関する小説を書き始めたのと彼に興味を持ったのとどちらが早かったかもう覚えていないんだけれど、「翻訳」という行為がどういうものなのか、「言葉」というものがどういうものなのか、そういうことについて考えを深めるのに、彼の書いた文章たちは本当に役に立った。役に立った、とかいうと偉そうですが。大変面白く読ませていただきました。

 

金原瑞人はどこかの大学の教員なので、公開授業とかの機会がないかとたまにウェブサイトを見たりしている。大学の公開講義って行ってみると初心者向けにいろいろ楽しく教えてくれて結構スナック教養的な楽しみがあり、コロナ前はたまに出かけていた。大学にそういう「公開授業」という取り組みがあると知ったのはコロナ直前1年前ぐらいで、登壇者を頼まれたからだった。正規の先生がやらないと意味ないんじゃないの、と思ったりもしたが、「広く地域の皆様に、大学の活動や学習に興味をもってもらい、生涯学習の手助けをすること」が目的であるということなので、必ずしも大学の先生がそのままいつもと同じ授業をするのが大事ってわけじゃない、ということらしい。どんな人が来るのか分からずひやひやしたりしたんだけど、みんな新しいことを学ぶのが好きって感じの方々で面白かった。もうちょっと早く知っていたら、色んな授業に行けたかもなあと思ったりもするんだけど、Zoom参加のものも結構あるので全国どの大学の公開授業聞けるって思うと今のほうがいいのかも。

 

話が逸れに逸れた。最近は聞き流しでYoutubeの哲学や心理学や歴史などの文系コンテンツを聞きながら眠ったりしている。あとは法務系の資格の勉強もしたりとか。結局知識を詰め込んだりテストの問題を解いたりするのが好きだってことなんだろう。資格試験は面白いから、また他にも探してみたい。

 

学生の頃は理系の教科ばかり大好きで、文系に進む道なんて見えてもいなかったけど、実は全教科のなかで一番安定して成績がよかったのは国語だったんだよなあ。漢字の書き取りは苦手でしたが、あんなの3問ぐらいしか出ないし。

 

 

好きなものが増えていくのは楽しい。あ、こんなことにも興味あったんだ、って自分のなかにある意外なものを発見したりするようなこと。あと、ただ楽しいことももちろん好きだけど、資格勉強したり何かを考えたり難しいことを理解しようとしたり、そういうちょっとした苦みも楽しめるようになってきたというか。小説や絵や歌が教えてくれたことかもしれない。試行錯誤して苦しんでやってるんだけど、まあ、続けていくし、別にいやいややっているわけではないし、面白いよ、ってこと。

 

 

 

 

こういう、読みづらくて楽しくなくてただ自分の感情と記録だけをとどめておくような文章ってどうなんでしょうね。瞬間的な喜びや悲しみとかは別の媒体でスナップショットみたいに記録しているからこそ、ここではこういう冗長でコンテンツ性のない記事が増えてしまっているような気がしてる。でも、五年後のわたしとか、十年後のわたしは、多分このブログを読んで喜ぶと思う。昔の自分がどんなことを考えていたのかって、未来の自分からしたら結構面白いことだったりするから。

 

 

というわけで、夏休み1日目でした。今日やったことは全然書いていなかった気がするけど、ジュラシックワールドを見たり、「ポケモンの神話学」を読んだり、ユナイトしたりしてました。ハンバーグを食べました。映画館はワンピースの映画公開初日でかなり混んでいた。これから小説を書く。