斉藤和義のすきな歌
斉藤和義を聞いていた一日だったので、まとめようと思う。
■ベリーベリーストロング ~アイネクライネ~
「ベリーベリーストロング」というのは、もちろん、「とてもとても強い」という意味で、人間と人間との絆のうたなわけです。なのに、街頭アンケートに全然答えてもらえない主人公や、離婚しそうな先輩のことが歌われている。斉藤和義の声は都会を思わせる声で、聴いているだけでさびしくなってくる。エレファントカシマシのうたを聞いているときとおなじ。なんだかさびしそうな人がいるから、その人のそばに行って一緒に歌ってあげたほうがいいんじゃないか、と思うぐらいに寂しさをかきたてる声をしている。
LIVE音源も聞いた。どうしてLIVE中で観客がうたう歌って、あんなに心ゆさぶられるのでしょうね。実際に好きなアーティストにあれをされると、いやいや、ここ良いとこなんだからあなたが歌ってくださいよ、とか思ったりもするんですが、こうしてLIVE音源聞いてると、歌わせたくなる気持ちがよく分かる。とっても気持ちいいだろうなあ。自分がつくった歌を、やさしくホールで合唱してもらうのって、これ以上ないぐらいあたたかい承認の響きを持つのではないでしょうか。
歌詞がすき。物語みたいに進んでいくところがすき。たしか、伊坂幸太郎の小説だったり映画だったりもするようだ。いちばん好きなのは、街頭アンケートで断られっぱなしだった主人公が、やっと回答してくれる女性に出会えたときに、雑談をしながら、「立ってる仕事は大変でしょうね」と労われ、それに対し「座りっぱなしも大変でしょうね」と答えながらも、心中で(自分の仕事が一番つらいと思うやつにはならない)と言うところ。唱えるみたいにいうところ。
「自分の仕事が一番つらいと思うやつにはならない」と思うためには、「おれの仕事が一番つらい」と思った経験がないといけないわけです。また、逆説的かもしれないけれど、「自分の仕事にはある程度価値がある」「みんながやっている仕事にもある程度価値がある」ということも分かっていなければならない。一つ一つが部品のパーツみたいにかみ合って、ようやく世界や社会が動いている、ささやかだけれどその中に自分がいる、みたいなことを実感してはじめて、ああ、仕事って、ないようだけど意味あるんだなあ、つらいかもしれないけど、でも……という呑みこみを経てようやく、「自分の仕事が一番つらいと思うやつにはならない」と思うようになる、ご褒美みたいに、そう思えるようになる。
「アイネクライネ」はドイツ語で、バッハだったかモーツァルトだったか……とにかくだれでも知っていそうな名のある作曲家の作品のひとつにつけられた題名で、小さいとか少女とかそういう意味を持つらしい。(あんまり詳しくはしらない。米津玄師にも同じ題名のうたがあるので、その解説記事を読んだときにおぼえた薄い知識だ)
わたしは男性の狂気を少女がさましてしまう作品がすきで、今のところこの世界でいちばん好きな短編小説はサリンジャーの「エズミに捧ぐ」で、ひどく疲れ切った世界のなかで、ちょっとした誰かの一言に癒されてしまう、救われてしまう、なんでもないことに涙が流れてしまう、そういう人の単純でどうしようもない心の動きが、ほんとうに可愛いなあと思います。
「ベリーベリーストロング」もそう。ベリーベリーストロング、って言いたくなるぐらい強い絆、愛、結びつき、そういうものが世界にはある。たまにしか見えないけれどある。抱きしめたいぐらいに弱そうに思えるのに、人間がそれを大事にできるから、「愛」だって呼べるなにかがある。
みたいな歌なので好きです。
その人の疲れに「お」をつけて
「さま」までつけて
「おつかれさまです」と
声かける ぼくらの日々
わかる。この歌詞だけでわかる。
毎日だれかに「お疲れさまです」って言っている、自分のその繰り返しを、ふとふりかえる歌であるところが好きです。どの曲も、「今日」とか「昨日」というものにものすごく実直で、積み重ねることによって堆積しているなにかを、心の底から信じている。
世界はなにかに報いてくれるかもしれないし、何もご褒美をくれないかもしれない。――みたいな雰囲気を出しつつ、奥底の基点の部分では、やっぱり世界に対する信頼がある。そういう歌なので好きです。お疲れさまです、お疲れさまです、これってなんなんだろう。どうして言っているんだろう、って日々のなかで自分の日常がいやになるときがあって、そういうときに自嘲的になる気持ち、そういうのを愛していないと書けないような気がするからすきです。
■ずっと好きだった
わたしはこの歌の題名は「ずっと好きだったんだぜ」だと今日まで(というかついさっきまで)思っていたんですが、「ずっと好きだった」なんですね。とってもまっすぐ。
最近、どんな小説を書いているのか、と聞かれたときに「ずっと好きだった、の話を書いています」と答えています。正直この歌のタイトルからもらったわけではないので、全然関係ないんですが、でも、今日この歌を聞いていて、改めて、ああいい歌だなあ、と思いました。ずっと好きだった、昨日も今日も好きだった、明日はもしかしたら違うかもしれないけど、でも少なくとも、今日までずっと好きだった。やっぱり「昨日」と「今日」の歌だよなあ、とおもう。セピア色のなつかしさ。過去をこれ以上なく宝物にできる歌。まっすぐだから、「好き」っていうのも恥ずかしいぐらい、有名な曲ですけど、でもやっぱり「好き」です。
うたうたい、と書くときに、「歌うたい」の形式で書くのがすきです。「唄うたい」「うたうたい」「歌謳い」色々あるけれど、やっぱり「歌うたい」かな……って、まあ、そんなの全然本筋と関係のないことですが。
だれもが知っている名曲。「今日だってあなたを思いながら」とうたっているから、たぶん昨日も一昨日も、この人は「あなた」を思っていたんでしょう。「ハッピーエンドの映画をイメージして」「唄うことは難しいことじゃない」「雨の夜も冬の朝も」
■やさしくなりたい
初めて好きになったのはこの歌かもしれません。家政婦のミタのEDでしたね。これほどEDにふさわしい曲ってあるかしら、と思うほどすき。
やさしくなりたい。ってどうしてそういう風に思うんだろう。わたしなりの答えをここに書いておくならば、それは過去を後悔しているからです。なにかを悔いたり、申し訳なく思ったり、あのときああしていればと思ったりするから、今日やさしくなりたいと思う。
サイコロ転がして
1の目が出たけれど
双六の文字には「ふりだしに戻る」
(略)
「1つ進めたのならよかったじゃないの」
強くなりたい、という言葉と、やさしくなりたい、という言葉は、一緒に語られることが多い。でもわたしは強くなくてもやさしい人はいると知っている。そういう人がすこやかに生きてくださるためにも、世界がやさしい人であふれますように。
「愛なき時代に生まれたわけじゃない」「キミに会いたい」という終わりもすきです。けっしてわたしたちは可哀想な時代の人間ではない、ということ。
■月光
あっちの席でオッサンは言ったよ
「オレは百人の女と寝たぜ」
こっちの席じゃ若者が
「男の価値はなにで決まるのかな?」
そしたらとなりの女が
「そんなの家族に決まってるでしょう」月も見えない夜に なにかが光り出した
どうしてこの歌がこんなにすきなのか分からないのですが、とてもすきです。そんなの決まってるでしょう、って言う人のことが好きなのかな。「愛されたいと願う人でここも順番待ち」な世界なんだけど、月も見えない夜なんだけど、でもたぶん君のことがほんとうに好きです、ほんとうってなんなんだろうと思うこともあるけど、でも気のせいなんかじゃありません。という歌なんだと思います。いや、どういう歌だっていい。とにかくすきです。
■世界中の海の水
もうタイトルがいいですよね。タイトルが目に入ってきた瞬間、おお、きっといい歌なんだろうなあと思いました。世界中の海の水、どんなふうに使うのだろう、と誠に好奇心がくすぐられますね。サビの歌詞のなかで、「世界中の海の水でも この火は消せない」というふうにうたわれるのです。愛はいつでも大袈裟に言うほうがいい。
パスカルは「人間は一本の葦である」と言いましたが、「この葦の命を奪うために、宇宙はなにもする必要がない」と続けました。「ただ少し力をこめれば十分である。葦の命を奪うために、宇宙は全力を出す必要はない」「しかし、この葦は考える葦である」「葦が考える時、思考する時、この葦は、葦をころす宇宙よりも、はるかに尊厳がある」「宇宙が我々に及ぶことはない」「ここに、道徳の原理がある」(記憶を頼りに書きました ぜんぜん違ったらごめんなさい)
それと同じで、世界中の海の水も、たった一人の人の愛を押しつぶすには足りないわけです。
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終わり。
今日はじめて聞いた曲も結構ありました。いい歌手だなあ。そして、サブスクっていいなあ。Apple Musicでは斉藤和義のうた、以上の歌すべてを含め、けっこうたくさん聞けました。たぶんほぼ全曲配信しているのではと思います。(ぜんぜん調べものをしていない記事ですみません 個人の日記なので……それではさらば……)
「十三月のうた」
※おかげ様で「十三月のうた」完売いたしました。ありがとうございました!
「十三月のうた」という本を作りました。
2019年の、某所*1で書いていた短文を、ざっくりまとめた一冊です。
初の文庫本! 90P! ――と、ページ数はけっこうあるように見えますが、短文集ということで、余白ページも多いので、数字ほどボリュームのあるものでもありません。16,000字ぐらいだったかな。「39編の短文」+「1編の掌編小説」という形式をとっています。
形式としても「小説」ではなく、「短文」「日記のかけら」に近いです。どちらかというと、陰鬱な文章のほうが多い本です。
サンプルページこんな感じ▼
こういう散文ばかりの本なので、言いづらいのですが、よかったらぜひ貰ってください。
本を貰ってくださる方へ
普段、小説を読んでくださったり、Twitter見て下さってる方に、お送りできればと思っています。わたしの小説を読んだことがない方でも、受け取ってくださるという方には喜んでお送りします。もしお邪魔でなければ2017年発刊済みの「標本」も一緒にお送りできればとおもいます。
ご住所教えていただける場合には、フォームからご連絡いただければお送りします。
匿名のやりとりをご希望の場合には、BOOTHの匿名配送(あんしんパック)で申し込みいただけるページも作りました。ただ、BOOTHの仕様上、最低100円の料金設定と送料が必要なので、470円となります。*2
※以前質問されたことがあるのですが、わたしとしては手間はさほど変わらないので、貰って頂けるのであればどちらでも構わないです!
※通販のやりとりでいただいたは毎回破棄しています。そのため、以前通販にて住所やお名前のやりとりをしたことがある方も、お手数ですが再度教えていただけると嬉しいです。
■「十三月のうた」匿名配送(BOOTHあんしんパック)【470円】
6月上旬頃発送予定です。
おわりに
Twitterであげている画像たちをまとめた本も、いつか作りたいなと思っています。そういうご要望もイベントでいただいたこともそういえばあった……(3年ぐらい前ですが……)
2018年版のまとめ本も、データ作りつつ入稿までいけなかったので、11月頃には出したいなあと……そんなふうに……思っています。あとこないだ完結したPolarisとかも……。
ときどき本を出すような人生にしていけたらなあ、と思います。どうぞよろしくお願いします。
さいごに。こないだ、「Polaris」という愛の話を書いたので、ぜひ読んでください。
2020/05/04
言いたいことがなにもなくとも、未来のために、きちんと日常を記録したい――という内容の日記を書いてから、次の日記を書かず3か月ほどが経っているようです。そろそろ書こう。
今日は友人1が友人2を裏切っている夢を見た。くだらないおじさんに騙されて、変な絵画(数十万円する)を友人1・2の連名で購入してしまったのだ。友人1が持ってきた押印済みの契約書を見て、これはとんでもないことだぞとわたしは顔を青くする。友人1とわたしとの二人きりで解決するかどうか一瞬悩んだけれど、結局友人2にも素直に話す。友人1は顔を下に向けている。そんなふうに怖がるぐらいならこんなことしなければいいのに――というところで目が覚めた。なんてとんでもない無礼な夢をみるものだろう。夢は願望の現れだとか、記憶の整理の結果だとかいうけれど、この夢はいったいわたしになにを伝えようとしているんだろう。
それほど夢を見ない子どもだった、とおもう。反して周囲の友人や同僚たちは、毎夜夢を見るひとたちばかりだ。えっ、たまにしか見ないんですか、忘れちゃうんですか、とちょっとびっくりされながら聞かれる。忘れたとかそういうんじゃなくて、たぶん夢は見ていない、そういう夜を過ごしている――と思う。そういえば先日、これはけっこうな衝撃を受けたのだが、夢のなかでなにかを考えたりすることができる人もいるらしい。もしかして、これもあたりまえのことなんでしょうか? ちょっと悩みごとがあるから、眠ってからいちど考えよう、との旨の発言を聞いて、わたしはてっきり「ねむる」→「起きてあたますっきり」→「かんがえる」というプロセスをとるのかと思ったのだけれど、その人は「ねむる(夢の中でかんがえる)」→「起きてあたますっきり」→「(再度)かんがえる」というプロセスをとれるそうなのだ。これがほんとうだとしたら、わたしはかなりの時間を無駄にしていることになる。睡眠時間のすべてとはいわないまでも、数十分でもいいからなにかを思索する時間に使えたら。現実世界しか考える場所がない、っていうこと、けっこう辛いことなんですが、これをお読みのあなたは、わたしの側に立ってずるいと思ってくれますか、それとも眠りながらものを考えることのできる人ですか?
そういえば昔、「2時間待てば、2時間が経つ」とそんなふうに思っていた時期があった。とっても当たり前のことに思えるでしょう。でも、2時間待てば、2時間経つ、きっちり経つ、時間は一秒も盗まれないのだ、ということが救いになっていた時期がわたしにはあったのです。毎日時間があるのが苦痛で仕方なくて、どうしてこうやることがないのか、ああなにもやる気にならないし、と悲しい気持ちになって、時計を見つめたりしているうちに「でも、2時間待てば、2時間経つんだよね」と気付いて、時間っていうのはほんとうに平等でやさしいなあと思った。――こういう感情を、一つずつでいいから思い出したい。学生時代にわたしが宿していた思想や感情に、もうアクセスする手段がひとつもないのは損失におもえる。
そういえば、話はとつぜん大きく変わりますが、「Polaris」という小説を完成させました。書いているときから、これは少なくとも傑作にはならないだろうな、という気がしていた作品でした。ふりかえってみて、たしかに花丸満点の出来とはいわないまでも、そんなにわるくないんじゃないか、好きだといってくれる人もひょっとするといるんじゃないか、という気がします。「小説家になろう」とエブリスタへ、投稿しました。小説家になろうのほうが読者数は多いんですが、エブリスタのほうが本棚登録数やスター数が見えるだけにやる気がでますね。好きだと言ってくれる人がでてくれるかどうか、待とうと思います。だれかが気に入ってくれたらいいなあ。そして、そういうつもりはなかったのですが、結果的に「死」を扱った作品になってしまいました。全般的に軽くなりすぎたのではないかと心配ですが、胸やけしそう、でも食べれる、ぐらいの腐りかけのケーキを目指しました。ただ、そのなかでもあまりに文章が分厚くなりすぎないように、リズムなどには気を払ったつもりです。これでは薄すぎるのではないか、もうすこし描写を多めにしないとわたしの良さ(そんなものがあるとすればですが)が出ないのではないか、とコメントくださったかたもいて、おそらくそれは至極の真実なのですが、あまり分厚くすることでそもそも読んでもらえない、ということもあるんじゃないかしらと思って、結局こういう風な味付けにしています。
作品を書く人がいっぱいいて、そのなかの一人として、わたしは書いている。だから、わたしはわたしで意味のあるものを書かなくては。みたいなことを、ずっと考えていました。周囲はライトノベルを書くかたが多いけれど、わたしはやっぱりそういうものは書けないし、だからといって「純文学」でやっていけるほどでもありません。まあ、どんなジャンルでもべつに「やっていける」ほどのものはなにもないけれど。
ただ、文章を褒めてもらえることは多いから、そこを強みにしていこう。とはいえ改行のない分厚い文章だとだれも読んでくれないから、ポエミー要素も挟んで、読みやすく、読みやすく。そうすれば強みを効果的に使って、弱みの傷をやさしく包む物語になる。そういうふうに戦略立ててやってきたつもりだったんですが、周囲に似たことをやっている人が少ないような気がして、なんだか自信を失っていました。その喪失はただしくて、やっぱりわたしはこの世界にどんな文章があるのか、があまり見えていなかったんだと思います。最近、家にいる時間が長いこともあり、いい文章に触れる機会が多くなっていて、ただただ自分が不勉強だったんだと知りました。ああいう小説もある、こういう小説もゆるされている、では、わたしが書けるのは? わたしが書きやすい小説は、いったいどういったものだろうか? すぐに完成できるはずはない、何度も何度もやり直して、それでも到達したいと思える文章の型はいったいどういうものだろうか。
もう少し、なにかを(自分なのか、作品なのか、そのどちらでもないのか、分からないのでこういう書き方をしていますが、とかくも”なにか”を――)信じることができたなら、あるいはもうすこし違う作品も書けるでしょう。分厚い文章を書くべきか、ポエミーに読みやすく書くべきか、でもこれだけだと胸やけしそうだからちゃんと新しい文体を作るべきか。自分らしさとはなにか、自分らしいってなあに、自分らしくある必要なんてあるの? まあ、いつもの悩みに帰ってきたわけです。これは幸せなことなので、ご心配いただくには及びません。
という渦中、3年前ぐらいに書いた、オブシウスの物語「オルシアと緑の術士」をエブリスタに投稿したら、新着ピックアップに取り上げていただいて、多くの方に読んで頂くことができました。この作品は序盤がかなり読みづらくて、失敗作だととらえていましたし、事実Twitterに掲載していた時には最後まで読んでくれた人はおそらく一人もいなかったんじゃないかと思います。
ではどうして今なら読んでもらえるのかというと、まあ正確な理由はよく分かりませんが、時間が経ったことでわたしがわたしの文章に対してちゃんと向き合えるようになった、ということが大きいでしょう。そもそも向き合えもしない文章をよくも2万字も書いていられたな、と思い、これはけっこう不思議だったので、当時の精神状態を知ろうと三年前の日記などをあさろうとしましたが、ひとつも残っていませんでした。まったくこれだから嫌になる。日記は書けって言っているでしょう!
しかしTwitterや手帳の感じから分かったこととしては、すっかり忘れていましたが、2017年1月の末にわたしの人生には酷い喪失の事件が起きて、2017年4月に実際に悲劇は実行され、その後半年あまりけっこう自由な時間を得ていたのでした。2017年12月頃から、かえってとっても忙しくなるんですが。オブシウスの物語は、2017年5月中旬に書き始めて、6月初めには出来ていたようです。2週間で2万字。1週間で1万字。このペースを守れれば、年間5本の長編が書ける。
でも、そのまま継続して書こうという気にはならなかった、ということなんだとおもいます。そういえば2017年5月は文学フリマに初出店した月ではないか。たぶん、小説を褒めてもらえることもとっても多かったし、感想を貰えることも多かったし、色々いいころ合いだったんでしょう。Twitterアカウントも作ったばっかりだったし。新しい出会いを増やせば多少はいろいろやってみる気になるだろうか。
こんな、ただの吐露みたいなの、ほんとうに意味があるんだろうか。と思わなくもないけど、4年前とか8年前の自分が書いたこういう文章、好きなんですよねえ。もう殆ど残っていませんが。どうだろう、2024年のきみ、2028年のきみ、この文章は、読みたい文章ですか。それともつまんなくて破り捨てたくなりますか。
2020/05/04
【2021/05時点】今までに書いた小説一覧
※今までに書いた小説一覧ページです。
シリーズもの
■未完:魔術士シリーズ
<未完:魔術分析士・キス・ディオール>
未完:~004話まで公開
君を分析しよう。多分、私なら上手くやれる。
《幼き魔術士見習いストアと、魔術分析士キス・ディオール。成長を描くハイファンタジー。》
ストア:幼き魔術士見習い。工房で術式を学ぶ。物語開始時、赤の本を習う。
キス・ディオール:世界でたった一人の魔術分析士。シルクハットを被り化粧をした、異様な格好の青年。
師匠:ストアを導く、名のある大魔術士。キスとは旧知の仲。
カリト:ストアの兄弟子。石細工の家に生まれた。
※「小説家になろう」にも同内容があります
<★更新中:オルシアと緑の術士>
第一部<出会い> 完
第二部 途中
https://estar.jp/novels/24697730
――ぼくはのろわれているのですか。
いいや、違う。きみは魔法使いだ――。
その一言を信じて、オルシアは岡の果てへ行こうと決めた。
■マルム学院シリーズ
<クロマ・ノール>
卵を大切に温めるみたいに、銀食器を丁寧に磨くみたいに、毎朝おれはおれの劣等感を育てている。
中編・長編
<完結済:Polaris>
地獄ですら払い戻しを喰らった。涼やかな閻魔は簡単におれを現実へ送り返す。
どうして生き返ったかというと、おれに価値があるからで、
価値っていうのはそう、「愛」のことなんだそうだ。
*
生き返った青年と、その様子を見に来る閻魔と、長谷川さんの物語。
<動物霊シリーズ>
青鹿(完結済)
伊木啓太――小さなものを動かせる。
二人は文化祭に向けて、文学部と演劇部、それぞれの活動に勤しんでいたが、悩みがあった。
宮部の悩みは、小説が書けないこと。
そして伊木の悩みは、劇のヒロイン役が次々に怪我で降板してしまうこと――。
// 爽やか毒づき青春ものです。ほんの少しだけミステリ要素あり。
<未完:朝目覚めると婚約者の王子がいて、しかも酷く嫌われていた件>
<二階と藤田シリーズ>
098-2
時系列的には一白界談「九十八」の作品の続きですが、本作単品でも読めます。どうぞ宜しくお願いします。
<未完:みことちゃん>
「みことちゃん」という、死んでも死んでも一分後……な、美少女が惨殺されるミステリ風ラノベを書いております。
— mee (@particle30) 2021年4月29日
▽みことちゃん 1話https://t.co/4G5JtA9WEB#月燈祭 #一次創作発掘祭_ミステリ pic.twitter.com/wWtrrjzqq9
短編
<カメレオンの恋愛手法>
2,080字。「標本」収録作品。
<ヴァン・ペルトの忘れもの>
恋人を閉じ込めたことがある。
箱に詰めて綺麗にパッキングして、二度と出てこれないように架空の住所をあて先にして郵送した。送り元の署名はしなかったのに、数年に一度ぐらいの頻度で恋人は帰ってくる。さすがにお互いもう交際中の認識はないから、「元」恋人ということになるのだろう。
https://ncode.syosetu.com/n7558gk/
<すごろく>
あなたは髪を乾かしているときが、いちばん不機嫌だ。
*
美悠はジャガイモを刻んでいるときが、いちばん機嫌がいい。
-- Twitter 企画 From to バレンタイン組・ホワイトデー組の両組参加しました。
<三点コーナーと赤い糸>
恋の一番おそろしいところはどこですか。彼の一言は、一撃は、いつも大きくて、私が一点取るのに手こずるところ、彼は軽々と三点を取る。まだ恋人じゃない「二人」の朝の一杯。
*夜明けのコーヒー企画 ( http://kaffeemorning2.xxxxxxxx.jp/ )に参加させていただいたときの作品です。
<砂漠の国シリーズ番外編:婚前の林檎>
世界の果てには、絶壁の滝。
竜の背に乗れば端から端へはたったの三日。
我々は、小さな箱庭で暮らしている。
――だから、諍いを起こしてはならない。争わず、協調のうえ生きていこう。この狭くも素晴らしい世界に幸あれ。
<企画参加作品:夜は氾濫を含め、井戸と車輪を持つ>
灑涙雨=さいるいう。七夕にふる雨のこと。
*
昔の人は、七夕の日に雨が降り、ひょっとするとかの『二人』が出会うことが出来ないのではないかという夜には、たらいに水を入れ、それを混ぜてやって、光同士を出会わせてやる遊びをしたそうです。
WEB企画 灑涙雨めくミルキーウェイ ( https://sairuiumekumilkyway.home.blog/ )参加作品。
12月1日
参加アンソロジーまとめ
いままでに寄稿させていただいた、オフラインのアンソロジー企画本などについてまとめています。すでに販売が終了している本もあります。
ポストアポカリプスアンソロジー「未来分岐」
ポストアポカリプスアンソロジーに「明日はいらない」で参加させていただきました。
【ポスアポアンソロジー 未来分岐】
— 無月彩葉🕊文フリ東京エ-07 (@10bo72ok) 2021年5月17日
BOOTH通販開始しました!今回会場に足を運べなかった方も、うっかり描い損ねてしまった方も、どうぞこちらでお買い求めください!!https://t.co/rqItPRzOXV #booth_pm
本と願いアンソロジー『希求書架』(紺)
本と願いアンソロ、第1弾に続き第3弾にも参加させていただきました。
「百科事典」という作品で参加しております。
#本と願いアンソロジー
— 本と願いアンソロジー『希求書架』 (@anthology_oct) 2021年4月30日
『希求書架』通販予約開始!
通常版 https://t.co/iCxxx3pYAz
あんしんパック https://t.co/oeeu10nYQN
【内容】25編 全252ページ
【発送】5月16日(日)以降
【価格】3000円+送料
イベント取置きもお声掛けください
内容紹介をツリーにつなげます。
一白怪談
99編、どこをあけても怪談話。てんこもりのホラーをあなたに。
maruyaさん、tamaさんと一緒に「一話足りない百物語」をつくって本にしました。どうぞよろしくお願いいたします。
平成ひとケタ展
平成ひとケタ生まれの人間だけで書いた本。2020年5月発刊。
「コフレの季節」いつも通り、ずっとすきだった、の話を書きました。他の方の作品も力作ぞろい!ぶあつい正方形本です。平成のかいじゅうも可愛いのでぜひチェックしてください。
骨アンソロジー『骨の聲』
骨をテーマにしたアンソロ本です。2019年11月発刊。
骨を火口から拾い上げてイキモノの設計をする設計士と、勝手に絶滅したい少年との、心温まるかもしれない短編小説を書きました。
本と出会いアンソロジー『邂逅書架』(青)
青い本、をテーマにしたアンソロ本。2019年5月発刊。
「石つくりと花の町」石作りの町と花の町とで、年に一度行われるお祭りの話を書きました。少年少女たちはこの一瞬のお祭りで、生涯の伴侶を見つけるのです。というタイプの話です。
食人謝肉祭・食人感謝祭
25名が「カニバリズム」テーマで書いた分厚い一冊。
謝肉祭は2018年11月発刊、感謝祭は2020年11月発刊です。どちらにも冒頭作で参加しております。
※食人謝肉祭:現在はお買い求めいただけません。
ボリューム感がすごくて大好きな一冊でしたが、好評ですでに売り切れてしまいました。お持ちの方は、どうぞ胸やけにお気をつけてお召し上がりください。「焼肉定食」という掌編小説を一番最初に掲載いただいております。油っこそうなメニュー名ですが、あまい愛のお話なので、前菜代わりにおいしく召し上がれ。
日本性癖学会(Vol.2)
性癖を論文調にして発表するというおもしろい取り組み。2017年11月発刊。
《大量生産される「異世界」とその特質 -つまるところ,「異世界」は「現実世界」と何が違うのか-》で参加しました。
コピー本まとめ
コピー本としてイベント等にて販売した本のまとめです。コピー本は再販は原則行っていないのですが、どの作品も改稿した後でいつかはWEB掲載いたします。(すでに掲載済みのものもあり)
- アルプエルフ(ALPELF) 第一部:WEB版
- 三点コーナーと赤い糸(表・裏):WEB版(表のみ)
- クロマ・ノール:WEB版
- 妖精あるいはYOSEI:装丁に関する記事
- From K to Tom:装丁に関する記事
Booth
同人誌・グッズなどはこちらです。
その他
星空文庫:https://slib.net/a/20603/
meeparticle2(散文置き場):meeparticle2
Pixiv Fanbox :https://particle.fanbox.cc/
随時追加していきます。
20200204
普段、なにか言いたいことがないと日記を書かないようにしてきたが、今後はとくに理由がなくても時たま書けたらな、と思う。たとえば半年に一度とか、そういうのでいい。
というのも――これは数年前から薄々気づいていたことでもあるのだけれど、人間は、すぐ忘れる。懊悩の末に辿り着いた自分なりの心理も、布団のなかで芋虫みたいに丸まって泣いたあとに気づいた感情も、書き留めなければ忘れてしまう。たとえ記録していたところで、残っているのは文字ばかりで、伝わるのも記号だけだ。その時にたしかにあったはずの熱量は湯気みたいに綺麗に消失してしまっているし、それを思い出すこともできない。だから、後から読んで、「この時は熱があったんだなあ」と思える分だけの勢いをもって(つまり、今現時点の自分としては多少「やりすぎ」なぐらいで)日記を、思考を、スクラップするみたいに残しておかなくてはならない、と思うようになった。
十代のころも、それなりに文章を書いていたような気がするのに、わたしの手元には全く残っていない。もしお持ちの方がいたら送っていただけませんか? と虚空に投げかけたくなるほどで、ブログや日記やTwitterや、なにかしらあったような気がするんだけれど……。たとえば深夜のSkype通話を、2時間だけでいいから録音しておけば、あの頃の喋り方や思考なんかを、今振りかえることができたんだろうな、と思う。人間が覚えていられることは、わたしが思っていたよりもずっとずっと少ない。小説を読んだあと、映画を見たあと、必ず「よかった一文」「よかったシーン」みたいなのを記録するようにしている。どれほど心震えても、忘れるはずないと思っても、わたしたちはあっさりと忘れる。本当に覚えておくべきことだけを抱きしめていられたらいいんだろうけれど、記憶は単純な木箱のような作りをしていなくて、ただ、流動的だから、まばたき一つするだけでまたほら、なにか忘れる。
でもその代わり、「思い出す」ことだってできる。飲み会で夜の一時ぐらいになって、眠たくて、適当な相槌を打っているときとかに、ああ、こういうシーンがいつだったかあったなあ、とよく思い出す。なんだかそれは酷く懐かしい光景だ。酩酊の状態自体を好んでいるかといわれると全くそうではないんだけれど、しかし何かしらの温かな記憶に充足されて、酒を飲んだあとのフラツキが、ものすごく幸福なもののように思えることがある。
でもそれほど酔っぱらう飲み方をしたことは、さほどないはずだ。二十歳以後、酒を飲むようになってからは、それなりに節度があったはずだし……いったいどういうことなんだろう……と数か月頭の片隅でなんとなく考え続けていたんだけれど、先日とつぜん思い出した。そうだ、寮生活をしていたころに、朝方五時ごろの夜明けまで、ベランダに出て毛布をかぶり、寒いねえと言いながら、眠さで多少頭がもうろうとしてきた頃の感覚によく似ているのだ。酒じゃない、ただ夜更けまでずっと喋りあかして、頭が溶け切ったころの、限界の眠気。
いまならあったかいココアを抱いて、ポテトチップスでも食べながら、Netflixで動画を見たりしたかもしれない。でもあの頃は、寮の規則でお湯は使えなくて、自室では食べもの禁止で、Netflixは世界のどこにもなかった。だから冷えた水だけで空を見て、ただ君と話をしていた。あんなに仲が良かったのに、君が去年結婚したことも知らなかった。
自分の年齢について最近よく考える。まあ、まわりがよく結婚するような年代だ。「友人が結婚するんですよ」と言ったときの周囲の反応も数年前とはずいぶん変わってきて、「早いねえ」だったのが、「おお、適齢期ですもんねえ」と返されることが増えた。今はまだいい。あと数年経ったら、本当に何かが変わってしまって、そのはざまにいるんじゃないか、と思うことがある。明日は怖くないけれど、数年後が怖い。
結婚、というか子どもが生まれてしまうことが、本当に不可逆の変化なので恐ろしいななんて思う。こんにちは、さようなら、では終わらない、ほぼ永遠に続く関係を生み出してしまうことが恐ろしい。そういば昨日、たしか子どもが1歳ぐらいだったと思う、別チームの同僚を含めて、三人ぐらいで飲みに行った。夜の九時半まで、その人は一度もスマートフォンを見ずに酒を飲んで仕事の話なんかをしていて、男の人っていいなあと思った。奥さんが専業主婦なんだろうか。同じチームには、時短勤務で、在宅もして、いつも幼稚園から呼び出されているメンバーがいる。わたしは出来たら、たまにはふらっと飲みに行き続けられるような人生を送りたいと思っているけれど、それは到底無理だ、と思う日もあれば、どうしてその程度のことができないかもしれないだなんて思うんだろう、という気になる日もあって、わたしの人生の難易度がどちらに設定されているのかまだ知らない。
2019年に読んだ本のはなし
いやーびっくり。2019年、終わってしまいましたね。「2020年」の響きにはどうもなれませんが、契約書を作ったり、議事録の日付をつけたり、そういうことをしているうちに、あ、いま2020年にいるんだな、と少しずつ呑み込めるようになってきました。
さて、では2019年に読んだ本のはなしをします。
ちなみに、2018年に読んだ本のはなしはこちらです。
では例年通り。
2019年に読んだ本
- 幽麗塔(江戸川乱歩)
- 去年を待ちながら(フィリップ・K・ディック)
- 自負と偏見(オースティン)
- 砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)
- 青年のための読書クラブ(桜庭一樹)
- わたしたちが孤児だったころ(カズオ・イシグロ)
- 完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込(若林正恭)
- きみの世界に、青が鳴る(河野裕)(階段島シリーズ vol6 完結!)
- すべてがFになる(森博嗣)
- 私が大好きな小説家を殺すまで(
斜線堂有紀 )
- 天気の子(新海誠)
- しろいろの街の、その骨の体温の(村田沙耶香)
- 僕たちの小指は数式でつながっている(桜町はる)
- 月の影 影の海(小野不由美)上下巻 ※再読
- 風の海 迷宮の岸(小野不由美)上下巻 ※再読
- 東の海神 西の滄海(小野不由美) ※再読
- 図南の翼(小野不由美) ※再読
- 華胥の幽夢(小野不由美) ※再読
- 黄昏の岸 曉の天(小野不由美)上下巻 ※再読
- 白銀の墟 玄の月(小野不由美)1~4巻
- 第2図書係補佐(又吉直樹)
- さよならの言い方なんて知らない(河野裕)
- さよならの言い方なんて知らない2(河野裕)
- ライ麦畑でつかまえて(サリンジャー)
- ナイン・ストーリーズ(サリンジャー)
- デミアン(ヘルマン・ヘッセ)
全32冊でした。あんまり記録していなかったので、覚えている限り、になります。
以下、一冊ずつ感想を3~5行程度で書いていきます。致命的ネタバレはしませんが、台詞抜き出して書いたりはしています。お気を付けください。
「世界は空っぽか? 諸君、世界はほんとうに空っぽか?」と、未だに誰かに問いかけられているような気がします。お嬢様女子高のなかで、いまいち光り輝けない地味な生徒が集まる「読書クラブ」を中心として巻き起こる学園ミステリ。世界全般の「光」を信じたくなるような、愛情あふれる本です。
中国とイギリスとが舞台の、アヘン戦争が絡んだ物語。ヒーロー扱いされている探偵、小ども向けのアニメみたいに簡単そうで夢見がちなクリア条件、そして残酷な真実。親が子を思う気持ち、というのは世界でいちばん純粋なんじゃないか、と思わされる物語。カズオ・イシグロは今のところどの本も全て素晴らしいです。
■完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込(若林正恭)
オードリー若林さんのエッセイ。相方春日の、「どうしても幸せなんですけれど、それじゃ成功できませんか?」が心にくる。日本には、不幸でないと「成功」できない、という宗教を持っている人が一定数いて、わたしもその一人です。
■きみの世界に、青が鳴る(河野裕)(階段島シリーズ vol6 完結!)
階段島シリーズ、ついに完結!「いなくなれ、群青」から始まって、最終巻は青春ものらしく、「青」に帰ってまいりました。なくしてしまったもの、忘れがたいもの、そういうものがやっぱり好きなのかもしれません。信仰しているけれど離れることができて嬉しい、だとか、そういう、そのキャラクターしか持ちえないようなオリジナルな愛情、というものを描いている作品が好きです。階段島シリーズにおいて、愛とは信仰のことでした。
かの有名な理系ミステリ。発行が古いので、多少古びた使い方に見えるようなコンピュータ用語もいくつかありつつ、まあ、楽しめました。こういう人気シリーズものをいくつか読んでいきたいと思います。
■私が大好きな小説家を殺すまで(
エモ系ライトノベル。ライト文芸、ぐらいの立ち位置でもあるかもしれません。
大好きな小説家が、小説を書けなくなる、文章を書かなくなる、綺麗な顔をつかって本を売るようになる、自分にだけは優しくしてくれたことを覚えている、恋のような家族愛のような、粘着する愛情。テープの剥がれ跡みたいな恋慕。終わり方のエモさが大変よい。「おれはずっと見てるからね」
■天気の子(新海誠)
2019年で一番よい映画だったと思います。もちろん映画鑑賞後に読みました。副読本としてほんとうに素晴らしい。文字を読むことで、あの美しい色彩のアニメーションが頭のうえにぼんやり浮かんで放映されているようで、とてもユニークな読書体験を楽しめました。まず映画を見てから、ぜひお読みください。この物語に「愛にできることはまだあるかい」ってテーマソングを書いたアーティストは天才だ、と思います。
■しろいろの街の、その骨の体温の(村田沙耶香)
「コンビニ人間」で受けた衝撃と期待とを、まったく裏切らない面白さ。博物館で絶滅した生き物に関する奇妙な習性を学ぶような興味深さがある。成長の止まったベッドタウンで、成長期の女子がこじらせて起こす成長痛。反して、まっすぐまっすぐ育つ男。その二人の痛ましい恋愛。似た作品でいうと綿矢りさの「ひらいて」がやはり至高だけれど、本作は、モテる男子とモテない女子、という組み合わせがまた一味違って面白い。友人のオススメで読みました。
■僕たちの小指は数式でつながっている(桜町はる)
これもライトな理系ミステリ(恋愛もの)に入るのだと思います。理系のなかでも数学系。「博士の愛した数式」といい、数学系と記憶喪失系は相性がいいのだろうか(というより、短期記憶喪失系の設定は、「天才」に持たせないとそもそも話が成り立たないのかもしれませんが)。モンティ・ホール問題、友愛数、などなどの単語がちりばめられていて、理系の人(というか、数学系のパズル本とか好きだった人)なら懐かしく楽しめる恋愛小説でした。読みやすかったです。
■月の影 影の海(小野不由美)上下巻
ここから十二国記です。いやーとてもいい。何度読んでも新たな発見がありますが、やっぱりこの作品は、自分が可哀相でたまらない思春期の女の子・男の子に読んで欲しいなあ、と思うのでした。
■風の海 迷宮の岸(小野不由美)上下巻
一番、終始幸せな物語なのではないでしょうか。可愛らしくてたいへんよい。
■東の海神 西の滄海(小野不由美)
王に出会うと、一にも二にもまず嬉しい、という麒麟の特性が印象深く描写されていて、無二の関係をえがいたうえにとっても面白い小説だと思います。いやー、十二国記はさすがに良すぎていっそ言うことがない。
■図南の翼(小野不由美)
小さいころから分からなくて、考え続けていた疑問に、まっすぐに、やさしく、現実の回答をくれた物語です。ちょうど主人公の女の子と同じ年のころに読んだと思います。
■華胥の幽夢(小野不由美)
改めて読んでみると、新作を読むために必要な知識の詰まった短編集。かなり慎重に、ミステリで犯人あてをするときみたいな気持ちで、じっくりと読みました。
■黄昏の岸 曉の天(小野不由美)上下巻 ※再読
責任感の権化。なにか大きな崩壊が起こる、それを止めたいと思う、なぜそう思うのか? ――もしもその崩壊が本当に起こってしまったならば、それは自分のせいだと思うからだ。
書評(というか、本の推薦文)のまとめ、ということになってはいるけれど、実際的にはエッセイ・コラム集。この人の人生には、ひとつひとつのエピソードに本が寄り添っていたんだな、と分かる一冊。最後の対談で、「芸人になって笑いが仕事になってから、笑いには救われにくくなった。作家はぼくのあこがれです」とデビュー前の又吉直樹が言っているんだけど、芥川賞作家になってしまった今、本が依然としてかれのなにかの助けになっていますように。
■さよならの言い方なんて知らない(河野裕)
クローズドゲームもの。不思議な箱庭のなかで、永遠に8月を繰り返し、ポイントを奪い合い、「スキル」を習得して殺しあう世界。死んだら、全部「元通り」――つまり、現世にどうやら帰れるらしい。こういう設定の話を好む自分が新鮮です。「生きろ、生きろ、生き延びろ」こういう哲学がある作品が好きです。階段島シリーズの河野さんの新作でした。
■さよならの言い方なんて知らない2(河野裕)
2巻目。ゲームもの書きたくなる。「ルールとは外れたところで勝負する」人間って、やっぱりチート感あって格好いいですよねえ。十二国記が(長編は)終わってしまったので、本作が今のところ唯一の「新刊が出たら買う」シリーズものです。
近所のガキ大将に弱みを握られた主人公は、暗い世界に足を踏み入れそうになるが、すんでのところで「デミアン」が助けてくれて――。少しずつ大人になって、口調が変わっていく主人公。かれが追い求めるもの、デミアンが追い求めるもの、はたして少年だった彼は、いったいなにを手に入れたのか? さすがの面白さでした。
長々と失礼しました。では2019年度ベストテンを。
2019年時点のベストテン
「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)
「自負と偏見」(オースティン)
「去年を待ちながら」(フィリップ・K・ディック)
「図南の翼」(小野不由美)
「ナイン・ストーリーズ(「エズミに捧ぐ」)」(サリンジャー)
「ひらいて」(綿矢りさ)
「青年のための読書クラブ」(桜庭一樹)
「少女不十分」(西尾維新)
どれほど素晴らしい作品でも、読んでいないと薄れていく感じがありますね。再読していかなくては。心が締め付けられる作品や、なにかを思い出したくて痛くなるような作品が好きです。
2020年は、ライトノベルや新書などの本を多めに読みたいと思います。
十二国記「白銀の墟 玄の月」1・2を読んで。
幸運なことにわたしの住む地域ではさしたる被害もなく、1日家に引きこもるだけですみました。ひとつひとつ、復習しながら読んだので、なかなか読み進められませんでしたが。さきほど、1・2巻読了しました。
以下、ネタバレも含む記事になります。
※以下、ネタバレありの記事。
みなさん、ご無事でしょうか?
かなりしんどかったですね。一ヶ月後の最終巻を、楽しみに、楽しみに、待っていようと思います。。。
さて、いくつか今までにファンの間で言われてきたことも含みながら、今回の物語について感想……というか、思ったことをもうつらつらと書いていこうと思います。わたし何時に眠れるのかしら。
目次です。
・伏線回収率がすごい
・歌シーンがしんどい
・高里くんの感情が読めない(&十二国記のテーマ)
・穿った と 鳩の多さ
・人が多い
・さいごに(死んだのは誰だったのか?の恐ろしい謎に対抗するために)
・伏線回収率がすごい
十二国記シリーズには、すでにいくつか見つかっている明示的な伏線というやつがあります。
伏線=物語の巧さだとはまったく思わないのですが、すくなくともこの18年の間、いくつかの伏線をキーにして読者側が勝手に今後の展開を予想していたことは事実です。そういうお楽しみが過去作にはきちんと用意されていました。
1つ目が、「同じ姓のものは(少なくとも続けては)王に選ばれることはない」こと。そして、驍宗と阿選が同姓であること。
この設定については、初めて読んだ時からちょっと疑問に思っていました。続けて選ばれることがない(連続しない)というだけのことなのか、それとも一度だれかが王に選ばれた家は、その姓を縛りにして未来永劫にわたって王を輩出することがないのか。
もし後者だとするとーーこの世界において姓は死ぬまで変えられない・変わらないものと規定されている以上、物心ついた瞬間に「自分が王になれるか」「なれないか」がわかっている世界ってちょっとこわいな、と思ったりもしました。閉塞的だな、と。まあ、そもそも王になるということが一大事なことなんだろうから、そんな心配しないのかもしれませんが……。
ただ、原作の書き方的には「続けてはならない」なのかな、という気はしていました。でもその規定ってなんか変ではありますよね……。
もし王に一度選ばれた姓が永久欠番みたいに二度輩出されない決まりになっているとするのなら、明らかに頼りなさそうな人が王に選ばれたりするのにもちょっと納得がいきますね。これもまた妙な規定だなとは思うんですが。まるで民全体で王様の役目を順番にこなしているかのようで……。
そしてもし欠番型なのだとすると、同姓の阿選と驍宗がどれほどこの1回に強く賭けたかったかはわかります。
また、上記の設定は、多分そんなにこの世界の人々に知られていない規定のようです。景では偽王がたちましたが、これは前王の妹で、順当に考えれば姓は同じのはずですがそれを理由とした反論はなかったようでした。まあ、本当に姓が別である可能性もあるとは思うけれど、少なくともこの規定はそんなに有名なことではないんだと思います。(実際、今作でも知らないほうが当たり前な模様)
そして伏線2つ目が、「泰国の国氏を持つものにしか使えぬ宝重がある」こと。国氏を持つもの、というのはもちろん泰王・泰麒のことではあるものの、才国の宝重の例を見るに、ひょっとすると王の家族も使えるかもしれないこと。(「泰なんたら」という称号を持っていればよい?)
この宝重は名前も効果も全く明らかにされていないものの、おそらく瞬間移動系か意思伝達系か、なにかしら千里を超える力がある模様。そして、限られた人にしか使えない。つまり、角を失い、髪も黄色ではなく、なにもかもができなくなった模様の黒麒の泰麒が、唯一その身分を証明できる可能性のあるものです。
そして穿った見方をすると、驍宗と阿選が万が一にも兄弟だった場合、阿選は王兄もしくは王弟ということになり、才国の事例を見るに「泰国宝重」の正当な利用者になります。中身は似ているという設定はすでに提示されているし、この世界では、血縁者の外見が似ていなくても問題ない。
たぶん、この2つあたりをキーに、物語が進むのだろうなー、と予想していた人は多かったんじゃないでしょうか。少なくとも姓が同じという話はよく見たし、宝重は明らかな謎として前作に登場していたので、この2つを結びつけて考察した人は多かったのではないかと思われます。
さて、今作。
宝重は、驍宗様らしき人(と、とりあえず呼びますね…)が持っていたらしい体力回復系アイテムのみ。効果が複数あるのかもしれませんが、すくなくとも考察通りのいい感じの使い方では出てきませんでした。なにより前作のあの言い方だと、距離を超える系宝重は首都・鴻基にあったようなので、驍宗様の手元にはなさそう。ということは逆に、今泰麒の近くにあるということなので、ぜひ3巻ぐらいで使っていただきたい。
また、これ以外にも、短編集は泰の内情や問題を分析するための材料となっていることが多くて、さすが最終巻、これまでの物語が集結している感じを受けました。
たとえば采麟失道の話では、いったい王は何年国をほったらかしたら(いや、ほったらかしたわけではありませんが……)失道に陥るのか、という疑問が解決されていました。どうやら数十年はかかる模様。つまり、まだ6年の泰は、荒廃してはいるけれどそれだけを理由に失道が起こるほどじゃないんだろうなと。
また、才は王様の近くから次の王様が出た例でもあります。そういう場合って王気ってどうなるんだろう?となんとなく気になるのが読者側の気持ちでしたが、そのあたりの解説も今作でしっかり回収されていました。こうやってみると、才国短編はかなり重要な立ち位置のものだったんですね……。
・歌シーンがしんどい
最初のシーンから、「驍宗様なんだろうな」と思いながら読んでいました。
ああ、やっと出てきた、と思いながらも、なんだか身体は不調な様子。1回目は、ああ出てきた、と思って終わったのですが、2回目、3回目、となるごとに、そんなに他人に優しくしている暇があるならさっさと出てきてくれよ、という苛立った気持ちに。
少年へかける優しい声も、含み笑いも、それらを受けるべきは泰麒なのに、かける相手を間違っている、という憎しみにも似た気持ちが出てきました。感情をもっていかれている。こわい。
そして墓の前の少年のシーンになったときーー実は一度、良かった、と思いました。まさかここで驍宗が死ぬはずがないから、たぶんこれは驍宗じゃなかったんだろう、と。ほかに、静之など、同じ歌をうたう者も登場してきていたこともあり、これはたぶんまた違う部下のことだったんだろうな、と。
この物語、過去の虐殺の話はあれど、リアルタイムには特に誰も死なず、旅もわりと順行を守っていたので、まさかここで大きな爆弾を落としてくるとは思わず……いや、なんか甘めに進むなあ、とは思っていたんですよね……。
とはいえまだ白稚は落ちてござらぬ。と呪詛のようにつぶやきそれだけを心の支えにしていきたい。でも、どう解釈するにせよ謎だけが残る……宝重使って魂魄を抜いてなにかに転化したとか……いやだめか……。
あと正頼。みんな生きてるって言ってくれてるけれど、議会の場で泰麒の顔を見分けられるものを「令尹(罷免されていなければ正頼のこと)か、李斎か、六官長か」と話した後で地の文で「いずれも死んだか行方不明」って書いてあって、おっふ……ってなりました……。
・高里くんの感情が読めない
元々、「魔性の子」が単体作としてとても好きで、「泰麒」ももちろん好ましいものの、キャラクターとしては「高里要」がいちばん好きだったんですね。キャラ萌えというよりは、「高里要」が出ている作品が好きだった。かれの少し人間離れした感じ、清貧で、悪いことをしない、考えもしない、とそういうところ。そういう存在にたぶんなりたかった。というか大抵の中学生はそうなりたいんだと思うんですが……でも、大抵の人間は「広瀬」側で、わたしたちは人間の世界で今後も引き続き生きなくてはならない。
とはいえ、「なりたい」対象であるという意味では、高里くんの思考はそれほど読めないものではありませんでした。自分とシンクロしているというわけではもちろんなく、そんなふうに考えるのかー、という意外さはあるものの、常にやさしくてたおやかで、まさに麒麟という感じ。でも、今回はかなり違う。
じつはこの違和感は「風の海 迷宮の岸」のときから感じていて、でも何度か読んでやっとのみこめたような感じでした。どうして高里くんは、あんな非情なことがあったあと、病を治して、さっと「戴に帰ろう」と言えたのか。天の助力を待ってはならない、と強くいうのは、言ってることはかっこいいんですがなんとなくいままでの感じと違う気がして。あまりに強気すぎるというか。王を見失った麒麟はみんなあんなものなんだろうか、とか。
でも、何度も読み直しているうちに、すごく辛いことがあったからこそ、それでも帰ってこられたからこそ、いち早く国へ帰ろうと思わないとやっていられないのかもしれないな、と思うようになってきました。そういえば泰の麒麟は比較的豪気だという設定があったし。
そもそも、天の気脈とやらから引き離されている泰麒の寿命は疑問視されていて、寿命がきちんと延びたのかどうかもよくわからない。
ひょっとしたらこのまま王を見つけ出せても、角を失っているために死ぬのかもしれないという状況のなか、たしかに彼が今作で言う通り(そして前作で玉葉が示した通り)泰麒が死ぬのがいちばん早くかつ確実な解決方法なのかもしれない。(とはいえいま、麒麟の果実が成らぬ凶事もあるようですが……)
実際かれは一度日本でそれをしようとしている。でも、今回はしない。それはたぶん彼が麒麟であることを思い出したからで、戴の国民の象徴であることを忘れられない以上、戴を自殺させるようなことだけはできない。そしてそういえば彼は、6年もの間ずっと「帰りたい」と故国郷愁の心にとらわれていたわけで、ようやく戻れたのだから、はやく、とにかく、そういえば帰りたいんだった。かれは「帰れる」ひとなんだった、と、何度も読み直した結果思うようになりました。
十二国記は、エピソードゼロから含めて全編通して、「自分は自分で、自分の王になるしかない」という究極の自己責任の物語で、だからこそ強いし、心に響くし、ただの麒麟でいることを許さないーーただ、優しくて愛情を施すだけではなくて、やらなければならないことを成す、そしてその道中には辛いこともあるんだけれど、自分で責任を持つしかない、という強い強い責任感がベースにある作品です。苛烈なほどに。
それが今のところいちばん現れていたのが、「風の海 迷宮の岸」の終盤の李斎で、泰を救わなければならない理由を「泰が滅ぶのなら、それは私のせいだからです」と断じるシーンがそれだったと思う。いちばん印象深く残っているし、まさにそれだ、という感じがして、勝手に自分も泰を救いたいような気持ちになった。
十二国記は自立の話、つまりは王の物語だ、とは思うものの、今作の主人公の一角は麒麟である泰麒です。ただ、彼も今は角を失っているので、ひょっとしたら今は「王」と同じ理屈で動けていて、だから阿選を騙したりできるのかもしれません。
・穿った と 鳩の多さ
穿ったって表現が多すぎて、もはやこれは「穿った見方で物語を楽しめ」という主上からのお達しなのかと思うほどでした。うそです。
鳩も多かったですね。白い鳥だから、向こうでは凶事の鳥なのかもしれません。首都・鴻基の鴻は鳥の意味なので、ちょっと関係あるのかもしれません。いやないかな……。
・人が多い
元々こうでしたっけ……たびたび説明を入れてはくれるものの、やっぱり人が多すぎて、もう、かなり復習しながらの進みになりました。今ならまだネタバレしているサイトはほぼないので、ファンサイトにアクセスすればネタバレなしの登場人物まとめリストなどを読むことができます。(ブログはすぐ更新されちゃうかもしれないので注意。)
特に今作においては、だれが敵で、だれが味方なのか? だれが傀儡で、だれがまともなのか? をある程度疑いながら読み進めてしまうところもあって、もはや推理小説のように登場人物それぞれの出身やアリバイなどをメモしていきたくなりました。。。
ーー
読みながら、そういえばこれが「最後の長編」なんだよな、となんとなく考え続けていました。さっそく来年短編集が出てくれるみたいですが……でも、この感じだと本編は泰を舞台にするのみで終わりそうだし、もう景麒や陽子、雁、範、奏、漣、恭などの長篇を読むことは、もうないんだよなあ、と思うと、せつなくてせつなくて。
そしてもし本当に驍宗が死んでいたんだとすると、ちょっとさすがに話がまとまらない気もしており……いや、でもほんとうに亡くなってしまったのかな……もし、探すのが数ヶ月遅れていたら、元気を取り戻していらっしゃったかもしれない、と思うともうほんとうにやるせないわけですが……。
一つだけ反論できるとすると、間際の言葉、台輔じゃなくて蒿里と呼んでいたらもう確定だった気はしています。もし驍宗ではなかったとしても、見目が似ているのは偶然ではないでしょうから、正頼が化けていたとか、そういう事情はありそうです。でもそうでもないのかなぁ……。
残る謎としては、どうして、阿選は驍宗を殺さないのか。
もしも兄弟(というか仙人だから子供や孫の可能性もありますが……)だとすれば、宝重を使うのに必要だったから、といえる。でも、どうしてその辺の村に捨て置いたのか。彼が絶対に復活できないとわかっていたとか?
とはいえ、作中の言葉に「人質をとる、脅す、籠絡するなどして、王が自ら玉座を投げ出せば失道にできる(が、今はそうではない)」とあるので、つまり逆をいうなら驍宗はこのどれでもない形式で戻れない、ということになる。そういえば、禅譲させることが可能なのも阿選だけ、という話もちょっとよくわからないのですが。。まるで二人がその気になれば連絡を取れるかのような物言いかな、と。
あと、最後に味方になってくれるとしたら、耶利の主人でしょうか。これもまだ謎です。
後半はおそらく、李斎と泰麒の合流、少年(回生)が首都へいく、まさにここぞというところでの耶利の主人の登場、などが起こると思われます。うーん。でもどうなるのかは全然予想がつかないですね。ここまできたら白雉が落ちているかどうか景に1回戻って確認してもいい気がするけれど、たぶんそうならないんだろうなーという気がしています。
そして、ここまで書いて思いましたが、回生くんって名前があまりに生まれ変わりしそうではないですか?!生まれ変わり!それならどうだ!!
……と思いましたが、そういうふうに命を扱うような作品じゃないな、と思いなおしました。でもちょっと珍しい名前ですよね。
11月を楽しみに待ちます。
本が好きって、素敵なことですね。本屋に並んでいるのを見るだけで嬉しくて、それを手にとって、レジに持っていく間も、賞状を受け取りにいくみたいにウキウキしていて。
ハリーポッターの外伝最終巻、「呪いの子」を読んだときに、あまりに面白くて、心がワクワクして、ひょっとしたらこんなに面白い読書はもう最後かもしれない、と思いました。いや、もう1回あるとしたら十二国記の最終巻だけかも、と。
面白い小説は、今までも明日からも、ずーっと刊行され続けてきたのでしょうけれども、これほどに冒険心をくすぐり、わくわくさせ、高揚させてくれるのは、やっぱり「小さいころに好きだった本」だけだなと思います。面白い本はきっとこれからもあるけれど、レジに本を差し出しながら、ちょっと泣きたくなるぐらい嬉しい気持ちになるのは、十二国記が最後です。
そういえば、一旦自分の気持ちを書き出したかったので、他の方の記事は読めていません。ので、また他の方のご感想など見て、追記や訂正をしたくなるかもしれません。
王様でも麒麟でもない我々ですが、至日までご無事で!